伴天連の語源


天草四郎

「伴天連(バテレン)」という古語は現代では時代劇にしか出てきません。伴天連の語源は、ポルトガル語の「padre(パードレ)」に由来します。これは「父」や「神父」を意味し、日本にキリスト教が伝来した際にカトリックの宣教師を指す言葉として使われました。文献上の初出は1569年の「御湯殿上日記」に見られ、「はてんれん、けふりんしいたされて」という記述があるそうです。この言葉は、江戸時代初期には「伴天連宗」や「南蛮宗」などと呼ばれ、次第に「吉利支丹(キリシタン)」が一般化していったそうです。なぜ伴天連の話かというと、1637年(寛永14年)10月25日に島原の乱が起きたからです。島原の乱は1637年から1638年にかけて、現在の長崎県島原半島と熊本県天草諸島で発生した大規模な反乱です。この反乱は、過酷な年貢の取り立てやキリシタン(カトリック信徒)への弾圧に対する農民や浪人たちの不満が原因でした。切支丹と伴天連は同義に扱われていますが、意味は若干違います。「キリスト」は、ギリシャ語の「Χριστός(Khristós)」に由来します。この言葉は「油を注がれた者」を意味し、ヘブライ語の「メシア(מָשִׁיחַ)」のギリシャ語訳です。日本語では、これをカタカナで「キリスト」と表記します。この表記は、キリスト教が日本に伝来した際に定着しました。日本の正教会ではロシア語風の「ハリストス」とも表記されることがありますが、一般的には「キリスト」が広く使われています。つまり「キリスト」「ハリストス」「クライスト」は言語の違いによる呼び名の違いです。日本語に取り入れられた際、ポルトガル語やスペイン語の影響を受け、「キリスト」という表記が定着したというわけです。江戸時代にキリスト教が日本に伝来した際、宣教師たちが「キリスト」という表記を用いたことも影響しています。さて、島原の乱ですが、背景として、島原藩主の松倉勝家は、領民に対して過酷な年貢を課し、キリシタンへの弾圧を強化しました。このため、領民たちは生活に困窮し、反乱を起こすことを決意しました。天草諸島でも同様に、寺沢堅高が厳しい統治を行っており、両地域の不満が高まっていたことが背景にあります。反乱は1637年(寛永14年)のこの日、過酷な年貢の取立てやキリシタン弾圧に耐えかねた島原の領民が代官・林兵左衛門を殺害し、「島原の乱」が勃発しました。天草四郎(益田四郎時貞)を総大将とする一揆軍が結成され、一揆軍は島原半島の原城に立てこもり、幕府軍と対峙しました。幕府は総勢12万以上の軍勢を動員し、原城を包囲しました。結末は1638年4月12日、幕府軍は総攻撃を開始し、原城を陥落させ、一揆軍は全滅し、天草四郎も討ち取られました。この反乱の鎮圧後、幕府はキリシタン弾圧をさらに強化し、鎖国政策を推進しました。そのきっかけだったわけです。島原の乱は江戸時代における最大規模の反乱であり、以後、日本国内のキリスト教徒は地下に潜伏することを余儀なくされ「隠れ切支丹」となりました。島原の乱は宗教的な要因だけでなく、経済的・社会的な要因が複雑に絡み合った結果として発生した大規模な反乱でした。

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