赤壁の戦い
建安13年(208年) 11月 20日、 赤壁の戦いがありました。旧暦11月20日は今年は12月20日になります。赤壁の戦いは三国志の中でも特に有名な戦いで、孫権・劉備の連合軍と曹操軍が長江の赤壁で戦い孫権・劉備軍が勝利しました。その前の状況として、河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下したのですが、8月に劉表が死に、跡を継いだ劉琮は9月に曹操へ降伏しました。荊州の一部の人間は曹操への降伏を拒み、劉表の客将であった劉備に付き従いました。その数は十数万人にも上り行軍が遅れたため、劉備は関羽が率いる数百艘の船にこれを分乗させ、漢水を南下させました。劉備は陸路で江陵を目指して南下し、途中で曹操の騎兵に追いつかれたものの長坂の戦いで生き延びました。劉表の弔問を建前に荊州の動向を探りに来ていた魯粛と面会し、1万人余りの軍勢の指揮を執っていた劉琦と合流しつつ、夏口へ到達しました。曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、南下して兵を長江沿いに布陣させたのです。当時の孫権は会稽太守に過ぎず、揚州刺史は曹操が派遣した劉馥でした。劉馥は208年に死去し、帰順していた陳蘭・梅成・雷緒らが反乱を起こしましたが、翌年までに夏侯淵・張遼・于禁・張郃・臧覇らに討伐されてしまいました。豫章太守の孫賁は曹操から征虜将軍に拝され、子を人質に出して帰順しようとしたが、呉郡太守の朱治に諌止されます。孫賁の弟である廬陵太守の孫輔は、後に曹操に内通したことが発覚し、幽閉(ゆうへい)されます。数十万とも言われる兵と朝廷の権威を擁する曹操の大軍勢を前に、孫権の陣営は恐れを抱き、張昭らは降伏を説いたのですが、魯粛だけは抗戦を説き、鄱陽に出ていた周瑜を呼び戻させました。周瑜は 「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は、本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにある」 と分析し、孫権に抗戦を説いたのです。魯粛から孫権と同盟を結び曹操と対抗するよう説かれた劉備は、諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結びます。諸葛亮が孫権との同盟を献策し、劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会し、 諸葛亮は、「曹操の兵が強行軍で疲弊していること、荊州の人間が曹操に心服していないことを挙げ、関羽が指揮を執る精兵の水軍と劉琦が指揮を執る江夏軍が、孫権軍に協力すれば必ずや曹操を破ることができる」と説いたのでした。諸葛亮の発言に大いに喜んだ孫権は即座に周瑜、程普らが指揮する水陸二万の兵を派遣し、劉備、周瑜らは併力して疫病に悩まされていた曹操軍を、赤壁・烏林で撃破して敗走させたとされています。赤壁の戦いはこの争いの分岐点でした。三国志はいろいろなバージョンがあり創作も加えられているので、史実とは違う部分もありますが、その分おもしろくなっています。登場人物が多いので、ややこしいのですが、好きな物に感情移入すると楽しめます。
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