旧暦師走九日
新暦1月8日は旧暦だと12月9日で、まだ師走です。この日は日本史において、いろいろなことがありました。大化元年(646年) には孝徳天皇が難波長柄豊碕宮に遷都しました。この宮跡に建てられた難波宮(後期難波宮)と区別して前期難波宮とも呼ばれることもあります。乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、白雉2年(651年)に孝徳天皇が遷都し、同3年(652年)に宮の造営が完成しました。建物は、朱鳥元年(686年)の正月に全焼するまで、現在の大阪市中央区大手前に34年の間存続しました。現在は大阪歴史博物館が建っています。白雉5年(654年)孝徳帝の没後、斉明天皇(皇極天皇が重祚)により飛鳥板蓋宮に遷宮され、その後は、天平16年(744年)になって同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれました。大阪の都といえば、秀吉の大阪城が知られていますが、大阪城は難波宮の少し北にあります。歴史としては、平治元年(1160年) 藤原信頼・源義朝らが後白河上皇の御所を襲撃し二条天皇を幽閉。平治の乱が始まりました。NHKの「光る君へ」ではラストシーンで、「これから武士の時代がやってくる」という暗示をしていましたが、紫式部の生年は諸説あり、一番遅いものでも978年だそうですから、刀伊の入寇が1019年時点で、41歳。当時のまひろは宮中を去り都で隠棲していた可能性が高く、遥か遠い大宰府に行った可能性はまずないでしょう。刀伊の入寇に遭遇する可能性もなく、創作でしょう。紫式部の没年も不明ですが、1014年頃と推測されているそうです。武士の台頭は教科書では、前九年の役(1051-1062)、後三年の役(1083-1087)と続く中で勢力を伸ばしていきますから、まひろの死後、30年以上経っています。また元亨元年(1321年) のこの日、 後醍醐天皇が、後宇多法皇の院政を廃して親政を敷きました。院政は藤原摂関政治の後の1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までをいうのですが、その前の1333年の建武の新政の前で鎌倉時代のことです。平安末期から鎌倉時代、室町時代は戦乱が多く、政権交代も激しくて、ややこしい時代です。近年では、慶応3年(1867年)のこの日には 倒幕派によって朝廷から王政復古の大号令が発せられました。王政復古の大号令は、薩長の武力倒幕派が計画し、天皇中心の新政府樹立を目指して、摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、三職の設置などが宣言されたものです。天皇を中心とする新政府が樹立しました。1321年のご醍醐天皇の親政から、546年後の1867年に長い武士政権が終わったのも、偶然とはいえ蝶々的な出来事です。後醍醐天皇は建武の新政の後、南北朝時代という、さらに混乱した時代を生きることになり、天皇家と武家を組み合わせた政権争いの時代になるのは、国中が大混乱になった時期で、一方で、この時期には現代にもつながる色々な発明、たとえば醤油の発明や胡麻や桑、楮、木綿などの栽培が始まりました。また大きな言語変化もありました。旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代で下克上による社会転換が逆に文明が発展したとみることができる時代でもあります。
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 | 31 |