無手勝流

元亀2年3月9日(1571年4月3日) 剣豪塚原卜伝が亡くなりました。享年83歳でした。塚原卜伝は講談では有名人ですが、宮本武蔵と比べると、現代では知らない人も多いかもしれません。講談などでは、若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があります。月岡芳年の錦絵などが昔の漫画や絵本で再現されたので、印象的ですが、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は全くの作り話です。
講談にはこういう作り話も多いのですが、何度も聞くうちに真実と思い込んでいる人も多いようです。塚原卜伝は地元茨城県鹿嶋市では剣術の鹿島新當流の開祖であり、剣聖と謳われています。鹿島神宮との関りも深く、よく知られた存在です。塚原卜伝の逸話としては「幾度も真剣勝負に臨みつつ一度も刀傷を受けなかった」とされています。著名な逸話のひとつで勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、『甲陽軍鑑』にある「無手勝流」のいわれがあります。卜伝は琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑んできました。彼はのらりくらりとかわそうとしますが、血気にはやる剣士は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って彼を罵倒するようになります。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、剣士と二人で小舟に乗り移ります。そのまま卜伝は近くの小島に船を寄せると、水深が足の立つ程になるやいなや、剣士は船を飛び降り島へ急ごうとします。しかし卜伝はそのままなにくわぬ調子で、櫂を漕いで島から離れてしまいます。取り残されたことに気付いた剣士が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまったというお話です。こういう取引も戦いでは重要です。はやって戦うだけが能ではないのですね。これが古来の日本の戦法の1つでしたが、今はこの若い剣士のような人が増えました。
卜伝の弟子である加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』の後書によると、その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられているそうです。この話はNHKの昔のドラマ(堺雅人主演)に再現されています。また、よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決があります。卜伝は諸国を武者修行しましたが、その行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせ、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったそうで、一人旅のイメージがある武者修行とはかなり違います。
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