革命の闇に沈んだ光――ジャン=ポール・マラー暗殺事件

1789年に始まったフランス革命は、王政を打倒し、近代民主主義の扉を開いた歴史的転換点でした。しかし同時に、それは激情と暴力、理想と裏切りの交差する混沌の時代でもありました。その混沌の中で、1793年7月13日、一人の急進的ジャーナリストにして政治家、ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat)が、若き女性シャルロット・コルデーによって殺害されるという衝撃的な事件が起こります。彼の死は単なる個人の最期にとどまらず、革命の軌道そのものを揺さぶる象徴的な出来事となりました。
ジャン=ポール・マラーは、もともと医学者として出発し、パリで開業医として活動していました。しかし革命の勃発とともに、彼の関心は政治へと急速に傾いていきます。彼は自身の新聞『人民の友(L’Ami du peuple)』を通じて、王政批判や貴族への攻撃、さらには穏健派への非難を鋭く展開し、庶民の代弁者として熱烈な支持を集めました。彼の筆致は過激で扇動的でしたが、それゆえに当時の政治情勢において極めて影響力を持つようになったのです。とりわけ、ジャコバン派とジロンド派の対立が深まる中で、マラーはジャコバン派の先鋭的な論客として台頭します。ジロンド派は比較的穏健な立憲君主制志向の派閥であり、地方自治や表現の自由を重視していましたが、マラーにとってはそれが「革命の裏切り」に映ったのでしょう。彼は繰り返しジロンド派の議員たちを「人民の敵」と糾弾し、多くの議員が議会から追放される事態を引き起こしました。
こうした中、ノルマンディーの貴族階級の女性でありながらジロンド派に共感していたシャルロット・コルデーは、革命が急進化していくことに強い危機感を抱いていました。特に、マラーの扇動が原因で多くの穏健派議員が処刑や追放に追い込まれたと考えた彼女は、「フランスを救うためにはマラーを殺さねばならない」と決意します。そして1793年7月13日、彼女はパリのマラーの自宅を訪れ、「ジロンド派の陰謀を暴露したい」として面会を求めました。当時、皮膚病のため浴槽で療養しながら執筆を続けていたマラーは、浴槽の中で彼女を迎え入れます。シャルロットは懐に隠し持っていた刃物で、マラーの胸を一突きにし、その場で彼の命を奪いました。マラーは叫ぶ間もなく絶命し、歴史は静かに、しかし大きくその歯車を動かしたのです。
この暗殺は、革命派にとって殉教と正義の象徴となり、マラーは「人民の殉教者」として神格化されます。ダヴィッドが描いた有名な絵画『マラーの死』は、そのイメージを後世に強く残しました。一方で、コルデーはその場で逮捕され、わずか4日後の7月17日にギロチンにかけられます。彼女は死の直前まで自らの行為が「共和国を救うための犠牲」であると主張し、冷静に刑場に立ったと伝えられています。マラーの死は、フランス革命の新たな局面への導火線ともなりました。ジャコバン派の支配はさらに強化され、恐怖政治と呼ばれる時代へと突入します。ロベスピエールによる粛清、密告、ギロチン処刑が日常化し、まさに革命が自らを食らう時代が訪れます。マラーという人物の生と死は革命が抱える理想と暴力の矛盾を端的に象徴しているのです。
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