イラン(ペルシアの末裔)の近代史


イラン全土を俯瞰した地図

1953年8月19日、イランの首都テヘランで、後に「8月クーデター」と呼ばれる政変が発生しました。これは当時の首相モハンマド・モサッデクを追放し、国王モハンマド・レザー・パフラヴィーの権威を回復させた事件であり、イランの近代史に深い影を落とす出来事です。このクーデターにはイラン国内の保守勢力に加え、アメリカCIAとイギリス秘密情報部(MI6)が関与していたことが後に明らかになり、冷戦期の中東情勢に大きな影響を与えました。

モサッデク首相は、国民主権を掲げた改革派の政治家でした。彼の最大の功績は、イランの石油産業の国有化でした。当時、イランの石油はイギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社(現BP)に独占されており、利益の大半は国外に流出していました。モサッデクはこれを「民族の財産の収奪」と批判し、1951年に国有化を断行しました。この決断は多くの国民に支持され、彼は「民族の英雄」と称えられるようになりました。しかし、石油国有化は国際的な摩擦を招きました。イギリスは経済制裁を加え、イランの石油輸出は事実上不可能になりました。経済は停滞し、国内には不満が高まります。一方で、アメリカは当初モサッデクを中立的に見ていましたが、冷戦構造が強まる中で、共産党勢力(トゥーデ党)の台頭を恐れるようになりました。もしイランが共産主義に傾けば、豊富な石油資源がソ連の影響下に入る危険があったのです。

こうしてアメリカとイギリスは、イランでの政変を支援する密約に至ります。1953年8月、CIAが実行した「アジャックス作戦」によって、デモの扇動や政治工作が行われ、ついにモサッデク政権は崩壊しました。モサッデクは逮捕され、後に自宅軟禁に置かれ、国王パフラヴィーは再び強い権力を握ることとなりました。こうしてイランは「王政下の安定」を表向き取り戻しましたが、その背後には外国の介入があったことが国民の記憶に深く刻まれました。その後のイランは、パフラヴィー国王のもとで「白色革命」と呼ばれる近代化政策が進められました。土地改革や教育拡充、女性参政権の導入など、一見すると近代的な改革が推進されました。しかし同時に、秘密警察サヴァクによる反体制派の弾圧や、欧米依存の経済構造が国民の不満を募らせていきます。

やがて1979年、国王の専制と欧米依存に反発する形で「イラン革命」が起こり、ホメイニ師の指導の下でイスラム共和国が成立しました。この革命は、1953年のクーデターによって失われた「民族の自主独立」を取り戻す運動としても理解されています。モサッデクの石油国有化は一時的には挫折しましたが、その精神は革命後のイランに引き継がれたのです。1953年のクーデターは、イランにとって単なる政変ではありませんでした。そこには「資源を自らの手で守ろうとする民族の意思」と「冷戦下の大国の思惑」とが交錯し、近代中東史の縮図のような性格を帯びていました。この事件以降、イラン人の間には「欧米は常に自国の利益のために介入する」という根強い不信感が広がり、それが現在に至るまでアメリカやイギリスとの関係に影響を及ぼし続けています。

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