手話の雑学16

日本では宗教と言語の関係を議論することはほとんどありません。あるとしたら「ことだま(言霊)」に関することで、これは現在の日本では、非科学的と思われて、排除されている思想です。実は日本の仏教でも、仏の教えとことばの関係をとらえ、聞こえない人のことを瘖唖(いんあ)者と呼び、仏の教えがわからない人という扱いになっていました。また刑法でもつい最近まで、差別的な扱いを受けてきました。ただ、仏教の場合、仏教徒や僧侶でさえ、なぜ聾者が差別されてきたのか説明できる人はいませんし、その根拠となる仏典について解説していることは稀有です。また禅宗のように「不立文字(ふりゅうもんじ)」といって、修行における言語を否定的に捉える宗派もあるほどで、禅問答のように仕草でコミュニケーションしたりする場合もあって、仏教は一神教に比べると、比較的言語については「ゆるい」状態です。お経という大切なものですら、「聞いてもよくわからない」状態が多く、実際に経典を読んで勉強するのは僧侶という専門職に限られてきました。近年、現代語訳などもようやく出始めましたが、一般人の関心はそれほど強くないと思います。
日本の仏教は、「なむあみだぶつ」や「なむみょうほうれんげきょう」のように、省略した文言を呪文のように唱えることが広がっています。西洋の宗教改革はカトリック教会が独占していたラテン語聖書を各国語にして誰でも読めるようにしたことなのですが、日本では誰でも読めるより、「簡単に言える」方への革命が行われました。しかし、音声言語だけが言語と考えてきたことは同じで、手話が言語であるという主張は日本から自発的に出てきたものでなく、欧米からの「文明開化」によってもたらされたものです。とくにその思想転換のきっかけは、宗教ではなく、手話通訳士制度という政策によってもたらされたものです。
日常的に聾児と接する聾教育の世界でさえ、口話法中心が長く続き、手話を採り入れようという流れはアメリカの「トータルコミュニケーション」という思想を採り入れようという運動以降と、手話通訳士制度が連動することで広がりました。そのTCでも、手話は音声言語を効率よく教えるための手段であると考えられてきました。もっともアメリカでは、当時すでに「国民は自分の選択する言語で教育を受ける権利がある」という憲法に従って、聾者は「聾者の言語である手話」で教育を受ける権利がある、という展開となり、逆説的に「手話は聾者の言語である」という論理展開がされていきました。しかし日本ではそうした背景はほぼ無視され、ろうあ団体を中心に、後段の「手話は聾者の言語である」という命題のみが手話通訳制度運動と結びつき、聾教育とは切り離した展開になっていったという歴史があります。大前提である、アメリカの憲法の「言語選択の自由」についての議論はほとんどみられませんでした。その代わりに「人権」という用語が運動として展開されました。この人権という用語も欧米と日本では意味がかなり違いますが、その話は後日の課題とさせていただきます。
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