聾教育と手話3


手話で話す女性のイラスト

昔の聾教育の具体的な内容は、史料が存在しないためわからない状況ですが、現在のスペインや南フランス、イタリアなどの地域の修道院では13世紀頃から各種の指文字が使用されていたことがわかっており、それらを用いてろう教育を行ったのではないかと考えられています。16世紀のスペイン、レオン地方に住んだベネディクト会の修道士ペドロ・ポンセ・デ・レオンが1570年頃、4人の聾児(いずれも貴族の子弟)に墨字と指文字で聾教育を行ったことも知られていて、それが現在の欧米の指文字の源流となっています。これを言語としての視点から解釈すると、当時の聾教育の目的は音声言語を教育することにあったことがわかります。

ドレぺの聾教育法は「手話法」であることが、ろう運動では強調されていますが、その手話についての解説はほとんど見ません。ドレぺが採用した手話はSigne Methodiqueで、日本では直訳で「方法論的手話」として紹介されています。これでは内容がはっきりしませんが、わかりやすくいえば「フランス語対応手話」です。フランス語をいかに聾児に教えるか、という目的により、聾児から採用した手話を工夫して改作したものです。当時の聾児の手話は身振りが多いのですが、それに「フランス語ラベル」をつけて発行されたのが上記の辞書です。当然、それだけでは足りないので、指文字を使って補強していきました。その指文字もドレぺが創作したわけでなく、スペインの修道士の間で使われていたスペイン指文字を改作したものです。スペイン語とフランス語では文字はほぼ共通のラテン文字ですから、採用も簡単でした。ドレぺがスペイン指文字を修道士から習ったことも記録されています。

イギリスのブレイドウッド聾学校ではジョン・ウォリスによる書記言語と指文字を使った教育法を基礎としていました、ドレペはボネートによるスペイン系の教育法から出発し、独自の手話を考案して聾教育を行った為、一般的に手話法の元祖であると見なされています。一方、ドイツのハイニッケは指文字や手話、ジェスチャーを厳密に排除した口話法を採用していました。ドレペとハイニッケは文通によってろう教育についての情報交換を行っていたそうですが、彼らが用いた言語はラテン語だったそうです。ハイニッケはドレペに自らの聾学校を視察に来るようにも勧めたが、これは実現しなかったとのことです。この対立的な思想は手話口話論争として、当時のヨーロッパでは議論沸騰の状況でした。そこで1880年、イタリアのミラノで国際会議が行われました。この会議の主催者はフランスの富豪ペレイラ家で、この一家は口話法支持者でしたから、有力参加者も口話法主義者でした。結果として、口話法の採用と「手話の禁止」が決定され、この影響が日本の聾教育にもしばらくありました。日本の聾学校で、手話の禁止時代があったといわれるのは、この国際会議に忠実に従ったからです。ただアメリカなどの参加者にはその会議への反発もありました。

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