手話の雑学117 宗教と障害者観2


手話で話す女性のイラスト

善悪の判断だけでなく、人の価値観の形成には宗教が深く関わっていることには疑問の余地はないと思われます。そこで西洋のキリスト教では障害をどう考えているか、日本の神道や仏教ではどう考えているかを探ってみます。宗教について、深い見識があるわけでもなく、宗教を語るには膨大な資料の読み込みが必要なので、AIの力を借りて、まとめてみました。責任転嫁するわけではありませんが、疑問や不審な点があれば、本論を鵜呑みにすることなく、諸賢が探究されることをお勧めします。

キリスト教は、その歴史を通じて「人間の尊厳」と「弱さへの連帯」というテーマを繰り返し語ってきました。旧約聖書・新約聖書の両方には、病や障害が登場しますが、その解釈は時代や神学の潮流によって変わってきました。古代から中世にかけては、障害がさまざまな原因である罪の結果、呪い、悪霊の作用などと結び付けられることがありました。しかし、キリスト教の核心である「隣人愛」の精神は、弱い立場にある人々への配慮と支援を促し、やがて制度としての福祉活動に結び付いていきます。

旧約聖書には、義とされる生き方として「弱い者への配慮」が繰り返し訴えられます。レビ記19章では「あなたの神を敬う者として、自分の隣人を自分自身のように愛しなさい」と語られ、貧しい者や異邦人、身体的弱さを持つ者への配慮が繰り返されます。ここにある「隣人愛」の倫理は、単なる善行ではなく、信仰の核心に属するものと位置づけられます。

新約聖書では、イエス・キリストの生涯が障害者観に決定的な影響を与えています。福音書には盲人や足の不自由な人、重い病を抱えた人々が登場し、イエスは彼らに触れ、癒し、共に食事をするなど、当時の社会習慣や宗教的偏見を超えた行動をとりました。例えば、盲人を癒す奇跡の物語は、単なる身体的回復の物語ではなく、「神の国が近づいた」ことのしるしとして語られています。ここで重要なのは、障害を持つ人が単なる「救済の対象」ではなく、神の愛の実践を示す主体として描かれている点です。イエスの行動は、障害を「罰」や「負い目」としてではなく、人間の尊厳と神の愛の表現として受け止める視点を提示しました。 中世キリスト教社会においては、障害者に対する見方は時に厳しいものでした。罪や呪いの結果と障害が解釈されることもあり、制度的な差別や隔離が正当化される場面もありました。しかし同時に、修道院や教会は救護施設や施療院としても機能し、貧者・病者・障害者へのケアを実践する場となりました。とりわけ修道女や修道士たちの看護は、近代的福祉制度の原点とも言われています。ここには、個々人の助け合いという倫理が、教会組織を通じて社会制度として根付き始めた歴史的な経緯があります。

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