節分会


十三夜の月のイラスト

立春と節分会は、日本の暦と想像力がもっとも生き生きと交差する季節の結節点です。節分は「季節を分ける」日で、本来は年に四度ありましたが、やがて立春前日の一回が特別視されるようになりました。冬の終わりと春の始まり。その境目は、古来もっとも“ゆらぎ”の大きい時間と考えられ、鬼や疫、災いが入り込みやすいとされます。だからこそ豆をまき、声を張り、身体を動かし、世界の輪郭をはっきりさせる必要があったのです。

京都の節分会は、とりわけその思想が濃密です。とくに八坂神社を中心とする祇園一帯では、厄を祓う宗教儀礼と、都市文化としての祝祭性が、長い時間をかけて溶け合ってきました。ここで注目されるのが「お化け」と呼ばれる風習です。

祇園のお化けは、単なる仮装行列ではありません。節分の夜、人々は鬼、妖怪、異国の人物、時に性別や身分を越えた姿に扮し、町へ繰り出します。顔を隠し、素性を曖昧にし、普段の自分から一歩外れる。その行為自体が厄払いなのです。災いは「正体の定まったもの」に憑く。ならばこちらが先に正体を崩してしまえばいい。これは、理屈としてはかなり洗練された防疫思想でもあります。現在では、一般家庭で「お化け」をすることは稀で、多くは祇園の芸妓たちがお得意様を回って、特別な踊りをしたりして、ご祝儀をいただく、という風習になっています。「舞妓はレディ」という映画では、舞妓や芸妓、町の人々が正体を隠して仮装し、立場や年齢、性別を越えて混じり合う様子が、説明的ではなく「当たり前の行事」として映し出されます。題名は「マイフェアレディ」のパロディでストーリーもパロディになっていますが、お化けの部分だけはこの作品独特のもののようです。「お化け」という言葉が示すのは、恐怖の対象というより、境界的存在です。人でも鬼でもない、男でも女でもない、内でも外でもない。節分という時間の裂け目に現れる存在として、これ以上ふさわしいものはありません。祇園の町衆は、その曖昧さをあえて演じ、笑い、酒を酌み交わしながら、災厄を共同体の外へ送り出しました。ここでは排除よりも攪拌が選ばれているのが興味深いところです。また、お化けは社会的な安全弁としても機能しました。身分や立場を越えた変装は、日常では許されない振る舞いを一時的に可能にします。これは単なる羽目外しではなく、秩序を壊すことで、逆に秩序を更新するための装置です。立春とは、新しい年が始まる思想的な瞬間であり、世界を一度ゆるめ、組み直す必要がある。そのための「遊び」が、お化けだったとも言えるでしょう。節分会の豆まきや厄除けは、今も各地で行われていますが、祇園のお化けには、都市が培ってきた知恵とユーモアが凝縮されています。鬼は追い出すだけでなく、演じ、笑い飛ばし、役割を与えられる。そうして冬はほどけ、春が入り込む余地が生まれるのです。立春とは自然現象であると同時に世界をどう更新するかという文化的な選択の結果なのだと祇園の夜は静かに教えてくれます。

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