迷信
旧暦のいろいろな行事、たとえば節分の豆撒きなどを迷信として取り合わない人をよくみかけます。そもそも迷信とは何でしょうか。辞書の定義だと「人々が信じていることのうち、合理的根拠を欠いているもの」とあり、似たような概念として「俗信」があるが、迷信と俗信との違いは、社会的な実害があるものが迷信、実害がないものが俗信とされています。俗信という表現はあまり一般的でなく、実害について人々が意識しているかどうかは疑問です。何となく科学的でないもの、という感覚ではないか、と思うのです。それに実害といっても、人により感覚の違いは大きいと思います。節分の豆撒きも行事そのものに実害があると考える人は少ないでしょうが、撒いた豆の掃除が大変とか、声がうるさいという人もいると思いますから、害の感覚は一定ではないと思われます。節分の恵方巻にしても、のどに詰まらせることがあるかもしれませんし、最近はフードロスという問題もあるので、辞書の定義によれば恵方巻は俗信でなく迷信ということになってしまいます。
節分の飾りとして、柊の枝に鰯を指して戸口に飾るという風習がある地域があります。ここから「鰯の頭も信心から」という諺ができたとされていますが、こうした魔除けは迷信なのでしょうか。この諺の意味は、鰯の頭のようなつまらないものでも信じる人には大切なものであるから、信仰とは不思議なことだ、というものですが、実際に飾っている地域では信仰心とは限らず、単なる風習であることが多いと思います。これを迷信だというならば、正月のお飾り、鏡餅、お節料理など、まためでたい時に鯛を食べる、紅白はめでたくて黒白は不祝儀、お雛様など全部が迷信ないし俗信になってしまいます。これらの習慣や行事に科学的根拠や実利を考える人の方が少ないと思います。
一方で、おばあさんの知恵とか、昔からいわれていることに後付けの科学的根拠をつけて有難がる傾向もあります。科学的根拠よりは生活上の便利さが強調されています。食べ物の食べ合わせなど、根拠がないとか、昔の知恵だとか、ご都合主義的に選択されているような気がします。その証拠に良い悪いの判断が変わることがよくあります。
迷信について厳しくなったのは明治以降のようです。江戸時代までは科学信仰は弱く、むしろ習慣や伝統が重視されていたのを、明治時代に文明開化という西欧化によって、こうした俗信をすべて迷信として排除したのです。太平洋戦争後は唯物論的思想がより強くなり、辞書のように合理性を重視する傾向はさらに強くなりました。その西欧には今でも多くの俗信や迷信が残っていますが、それらは文化であるとしています。この判断基準のゆがみはそろそろ直した方がよい、と思います。明日は西洋の迷信をいくつかご紹介いたします。最近の傾向は合理性だけでなく、エビデンスの過剰重視も目立ちます。エビデンスとは何かについても解説していきます。
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