劉備玄徳と漢
章武元年4月6日、劉備は漢朝を打ち立てました。西暦221年のことです。歴史では西暦表記で習います。比較のためにはしかたのないことですが、その国の元号や暦を尊重する考えもあってよいと思います。元号はその王朝ごとに公布するものであり、宗教歴である西暦で世界を統一という歴史思想はイスラムやユダヤやその他の暦を無視することであり利便性はあっても合理性はありません。日本が西暦と元号を併用していることには合理的根拠があります。生活においては旧暦(太陰太陽暦)を今も活用していることにも合理性があります。歴史を年号覚えの科目にしてしまったことで失われた知識は大きいと思います。
現代では漢といわず蜀漢といいますが正式な王朝名は漢です。劉備が漢の正統を継ぐと宣言したため、分類上、現在は蜀漢と呼ぶのですが自ら蜀漢を宣言したわけではないのです。蜀は魏や呉とともに三国時代を形成していました。この三国志時代が好きな日本人は多いと思います。実際、今でも映画やアニメになったりしています。州牧・劉表の元に身を寄せていた劉備は諸葛亮を三顧の礼にて招き入れます。有名な逸話で「三顧の礼」は今でも故事来歴として文章に使われます。諸葛亮には「泣いて馬謖を斬る」も有名な故事があります。劉備は諸葛亮に荊州・益州を取って孫権と手を組み曹操を破るといういわゆる天下三分の計を説かれ、孫権と共に赤壁の戦いで曹操を破り荊州南部の4郡を制圧し覇権を握ります。
漢といえば日本では漢字があり、漢字の読みには漢音と呉音があるということで馴染みが深いのですが、実は漢という国というか王朝は1つではありません。超簡略化した中国王朝の歴史を見ると、中国を初めて統一したのは始皇帝でその王朝は秦です。しかし秦は始皇帝が跡継ぎをハッキリさせないまま急死してしまい、二代目で滅亡という呆気ない終わりを迎えてしまいます。そして項羽と劉邦をはじめとした戦乱の時代を経て、最終的に劉邦が漢王朝を作りました。漢は十五代目の皇帝になるはずだった劉嬰の時に一旦滅びてしまいます。この王朝が前漢です。お決まりの内部抗争の結果で、次の王朝が新ですが、それが再度のクーデターで前漢の六代皇帝・景帝の末裔にあたる劉秀が本家筋にあたる劉玄に従い挙兵し、更始帝を立てますが争いの結果、結局は人望のある劉秀が即位し、やがて全土を支配して漢王朝の復活を遂げます。それでこの王朝を後漢と呼びます。しかし後漢の時代は皇帝の力が弱く戦乱が続き、さらには黄巾党という新興宗教の首領である張角が反乱を起こし、それを討伐しようとして曹操や劉備や孫堅などが頭角を現し、ここから三国時代が始まります。
魏は日本だと魏志倭人伝として知られていますが、これは魏の歴史書で、倭人伝という独立した巻があるわけではなく、魏志の中に倭人(日本)についての記述がある、という程度の個所です。従って日本史上は有名でも中国人はほとんど知りません。その中に邪馬台国や卑弥呼のことが書いてあり、それが昔から日本では論争になっていて、日本人なら誰でも知っています。曹操の息子の曹丕の時に魏の皇帝となり、蜀の劉備も漢の皇帝となり、孫権の呉も魏から独立して皇帝となったため、三皇帝の鼎立となったのが三国時代です。呉については今でも呉服という表現で日本語に残っています。呉から日本に伝わった織り方によって作られた反物に由来し、綿織物や麻織物を意味する太物に対し、絹織物を意味する語として使われるようになりました。
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