江戸城無血開城の終了
旧暦弥生11日に江戸城の無血開城が終了しました。歴史的には非常に珍しいことといえます。通常、城は萌え落ちるか、占領されます。忠臣蔵の赤穂城も明け渡しになりましたが、江戸時代の武士の意識は冷静で、合理的な判断ができた人がリーダーであったことが推測されます。そしてそれも日本文化なのだと思われます。
江戸城無血開城については3月にも書きましたが、西郷と勝の会談の後、開城は一気に終わったわけではなく、いろいろな手続きがあり1ヵ月ほどかけて明け渡しがおこなわれています。江戸へ再来した西郷は勝らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日に大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城しました。橋本らは大広間上段に導かれ下段に列した徳川慶頼らに対し、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下しました。城引き渡しの代わりに命は助けるという措置がここで下されたわけです。そして9日に静寛院宮(和宮)が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去し、11日に徳川慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し隠居したことで同日をもって江戸城は無血開城になったとして、大総督府が接収しました。4月8日に東征大総督熾仁親王は駿府を出て21日江戸城へ入城しました。ここにおいて江戸城は正式に大総督府の管下に入り江戸城明け渡しが完了したわけです。以上のような過程を経ており、何をもって無血開城とするかは判断が多少わかれます。
歴史に「もし」を仮定しても意味はないのですが、もしこの江戸城開城がなかった場合、江戸は西郷の総攻撃によって火の海になっており、江戸城も落城、周囲の大名屋敷も焼け落ちたでしょうから、接収して東京になったかどうかはわかりません。官軍側は江戸城だけでなく大名屋敷や町屋もそっくりいただいた訳で、随分得したといえます。慶喜はよほど戦嫌いだったと見えて、鳥羽伏見の戦いで負けそうになったら、さっさと部下を捨てて江戸に帰り、大政奉還して政権も渡し、江戸決戦を勧めた小栗忠順を解任してしまいます。小栗の策ではまだ健在であった幕府海軍で東海道の官軍を砲撃し分断して江戸で戦うという戦法でしたから、もし実行されていたら、東海道を下ってきた官軍は幕府軍に敗れていたかもしれません。海軍の艦砲は射程距離も長く、陸軍の大砲は船まで届きませんから陸の官軍は完全敗北の可能性もありました。小栗はその時のために軍資金を貯めていたそうで、それが徳川埋蔵金伝説の元になっています。小栗は幕府のアメリカ派遣団の主要メンバーでしたから米国の文明だけでなく米国流の戦術も学んだはずで、もし生きていたら、新しい徳川政権を作っていたかもしれません。最後の将軍が慶喜であったことが明治維新にとっては幸運だったという見方もできます。
歴史に「もし」はないのですが、歴史に学ぶことはたくさんあります。幕末から明治にかけての転換期はどうしても明治維新という言葉に象徴されるように「新しい世の中になった」という利点が強調されることになりますが、良いものまで「古い」として捨て去ったこともたくさんあります。新しいから常に良いとは限りません。また古いから良いということもありません。時代による変化と善悪の価値判断は分けて考えるべきでしょう。生物にも進化だけでなく退化もあります。人間にも成長と老化があります。時代の流れも常によい方向に流れているとはかぎりませんから事実をしっかり見つめて判断することが重要です。
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