天保の改革


水野忠邦

旧暦3月1日江戸時代の三大改革の1つ天保の改革(てんぽうのかいかく)が行われました。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的としたとされています。今改めて見てみると

まず綱紀粛正が有名で、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えました。歌舞伎役者の7代目市川團十郎、人情本作家・為永春水や柳亭種彦などが処罰されました。町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたのですが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業しました。それでも新吉原の6ヶ所については全て免除されています。特に歌舞伎に対し、市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制(平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の編笠着用の強制)、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられました。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を天保12年の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは、北町奉行・遠山景元の進言によるものと言われています。合わせて陰間茶屋(かげまちゃや)も禁止された。陰間(かげま)とは江戸時代に茶屋などで客を相手に男色を売った男娼の総称で、特に数え13 - 14から20歳ごろの美少年による売色をこう呼びました。かなり全体的に厳しい取り締まりでしたが、性風俗については、現代から見ると緩いものでした。LGBTについて江戸時代は寛容な文化でした。

軍制改革として、阿片戦争で、清がイギリスに敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した一方で江川英龍、高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせました。防衛意識は高かったのです。

経済政策はいろいろあり、「人返し令」として、幕府への収入の基本は農村からの年貢でしたが、貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していました。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとしたのです。

「株仲間解散令」は高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとしたのですが、株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招きました。「上知令(上地令)」というのもあり、江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させ幕府の行政機構を強化するとともに、江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとしたのですが、大名や旗本が大反対したため、上知令は実施されることなく終わりました。地方問題は今も難しい課題です。

金利政策として、相対済令の公布とともに、一般貸借金利を引き下げ、札差に対して、旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする無利子年賦返済令を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたったのですが、貸し渋りが発生し、逆に借り手を苦しめることになりました。また、貨幣発行益を得るために貨幣の改鋳を行ったのですが、天保の改革においては以前とは異なり猛烈な勢いで改鋳を行ったため高インフレを招きました。

この時期には商品経済が発達しており、GDPにおける農業の割合は低下していたので、幕府の財政が苦しくなっていたのですが、根本的な問題は解決しなかったのです。(wikipedia参照)

何が現在と似ている側面がありますね。

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