和田合戦と鎌倉殿



NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は鎌倉幕府を支えた御家人のことですが、ドラマではどこまで話が進むのか現在は不明です。建久10年(1199)に頼朝が急死(原因は諸説あってドラマではどの説をとるのか興味があります)した後、長男の頼家が18歳で第2代将軍になるのですが、このドサクサに都では三左衛門事件という朝廷内の騒動があり、鎌倉幕府方は大江広元が沈静化をはかり北条氏が次第に勢力を伸ばしていく中で「鎌倉殿の13人」による合議制が出来上がります。今度は御家人の中で御家人同士の争いが起こり、まず梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され一族の多くが滅ぼされてしまいます。これを梶原景時の変といいます。頼家の信頼が厚い梶原景時を惜しむ大江広元は躊躇して連判状をしばらく留めていましたが、和田義盛に強く迫られて将軍頼家に言上。将軍頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めても景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向。やがて景時は鎌倉追放を申し渡され和田義盛、三浦義村が景時追放の奉行となります。和田義盛は三浦義村の弟です。景時の所有であった美作国の守護は和田義盛に与えらます。和田義盛は梶原景時に侍所別当の座を奪われたことを恨んでいたのです。和田義盛は再び侍所別当に返り咲くことになりました。しかしこれで騒動が終わったわけではなく、景時亡き後の頼家を支える人は頼家の乳母父であり舅でもある比企能員でした。比企氏は頼朝の流人時代を支えた比企尼の一族で比企氏の家督を継いだ能員は頼朝の信任を受けていました。能員の娘若狭局は頼家の側室となって嫡男一幡を産み将軍家外戚として権勢を強めていきました。この比企氏の台頭に危機感を持ったのが頼家の母北条政子とその父時政でしたが、時政は頼家の後ろ楯となる勢力からは外され代替わりとともに一御家人の立場に転落させられました。比企能員は若狭局を通じて頼家に北条時政を討つように訴え頼家は時政追討の件を承諾するのですが政子が次第を時政に知らせ、時政は大江広元に能員征伐を相談、広元は明言を避けつつもこれに同意します。北条義時を大将とする北条軍と比企軍の戦いは大勢の御家人が見方した北条軍の勝利に終わりますが、和田義盛も北条軍に参加しました。これを建仁3年(1903)の比企能員の変といいます。この頃すでに病床にあった頼家は伊豆修善寺に自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとしますが、それでは比企の力が大きくなることを恐れた北条時政が比企を滅ぼしたというのが真相のようです。頼家も修善寺で亡くなり(暗殺とも)息子の一幡も合戦で死んだため、頼朝の三男千幡が第3代将軍に12歳で就任し実朝となります。この実朝も建保7年(1219)頼家の子、公暁により暗殺されてしまいます。この背後にいたのが御家人の一人である三浦義村とされています。
その少し前、第3代将軍として源実朝が就任してから10年後の建保元年(1213)、父時政を引退させて執権になって権力をより強固なものにしようと北条義時は大きな力を持っている和田義盛を潰そうと計画し和田合戦となります(旧暦皐月2日)。そのきっかけとなったのが建暦3年(1213)に起きた泉親衡(ちかひら)の乱でした。泉親衡は13人ではない御家人の一人ですが、源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようと図りました。親衡は一旦捕まりますが千寿丸とともに落ち延びて出家しました。泉親衡は捕まった時、和田義盛の子の義重や義直、甥の和田胤長(わだたねなが)」の名前を挙げました。北条義時はこの事態を利用し和田義盛を挑発し和田義盛は北条氏を倒すために挙兵しますが北条氏を討つはずだった三浦義村(兄)が直前に北条氏に寝返ってしまい一族は討ち死にします。義村は第4代将軍藤原頼経と第3代執権の北条泰時を支えて延応元年(1239)に亡くなります。この北条泰時は義時の息子ですが母の阿波局についてはいろいろな謎があります。NHKドラマでは妹になっていますが阿波局は義時の側室です。

和田塚

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