天保の改革
水野忠邦の天保の改革について、歴史の時間に習って名前くらいは憶えておいでの方が多いと思います。天保12年(1841)皐月十五日から始まりました。天保年間は全国的な凶作による米価・物価高騰や大飢饉による百姓一揆や都市への人口流入、打ち壊しが頻発しました。甲斐国天保騒動や三河加茂一揆、大坂の大塩平八郎の乱などが起こりました。海外でも阿片戦争やモリソン号事件などが起きて騒乱の時代でした。
徳川将軍家斉が薨去し、水野忠邦は西丸派や大奥に対する粛清を行い、人材を刷新して農本思想を基本とした天保の改革を開始しました。幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じ、江戸町奉行遠山景元(遠山の金さん)・矢部定謙を通じて華美な祭礼や贅沢奢侈はことごとく禁止されました。大奥については姉小路ら数人の大奥女中の抵抗が強く改革の対象外とされていました。ここまで来て、何となく現代に似ていませんか。
倹約令では風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖などにより庶民の娯楽に制限を加えました。一部の古くからある寄席を除き大半が規制を受け廃業しました。新吉原についてはすべて免除されています。現代の日本政府はこうした規制はしていませんが、コロナ対策で似たような結果になっています。吉原が免除というのも現代に通じるものがあります。
歌舞伎に対し市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった弾圧もあり、歌舞伎の廃絶まで言われたのですが、そこまでにならなかったのは遠山景元の進言によるものらしく、それで金さんは歌舞伎やその後を継いだ映画、テレビで高評価されているのかもしれません。一方で水野忠邦の評判は凄く悪いわけです。
経済政策としては人返し令をしています。幕府収入は農村からの年貢でしたが、貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し年貢が減少していました。そのため江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとしたのです。安定税収、地方移住、似ていますね。
株仲間解散令もありました。高騰した物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとしました。しかし株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招きました。規制緩和です。
上知令では江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとし、これによって幕府の行政機構を強化して江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとしたのですが、大名や旗本が大反対したため、上知令は実施されることなく終わりました。大阪都構想、似ていますね。
金利政策として相対済令の公布により一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げました。そして札差に対して旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする無利子年賦返済令を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたったつもりでしたが、当然貸し渋りが発生し逆に借り手を苦しめることになりました。現在の日銀低金利政策の現状です。
改鋳はよくある手です。貨幣発行益を目的とする改鋳は江戸時代の多くの時期で行われ、猛烈な勢いで改鋳を行ったため高インフレを招き失敗しました。デジタル通貨が似ていませんか?やはり歴史に学ぶべきです。
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