外交と社交


国際会議

外交というと政府の仕事という感じでしょうし、社交といえば個人的な関係と思うのが日本語のニュアンスです。英語でdiplomaticという場合、日本の外務省がしているような国際間の社交と異なり、「駆け引き」というニュアンスが強いです。よく外交の場では、卓上ではお互いにニコニコと会話しながら、テーブルの下では脚で蹴りあっている、という戯画がでてきます。これは個人間や組織間でもあることです。

先ごろのG7でも、日本はみなさん仲良く友好的な会議と勝手に思っていますが、実際にはお互いの利益が相反することも多いため、机の下では脚を蹴りあっている外交が展開されている、と考えるべきです。脚を閉じたままニコニコしていたのは日本だけでしょう。日本以外の国はハグしあうと同時に駆け引きもしていました。

そもそも日本は駆け引きが下手、というよりも卑怯だと考える人が多いです。とくに武士の文化では駆け引きをしない真っすぐな方法が美しいと思う人が多いようです。社交という人間関係でも、社交的な人への評価が必ずしも高くはなく、寡黙で誠実である人の評価が高い傾向にあります。誰とでも仲良くする、チャラチャラしている(チャラい)人への評価は今の若者でも評価が低いです。社交を英語ではsocial社会的と表現します。「チャラい」を英語にするのはなかなか難しいですが、ネット辞書ではshallow浅薄という訳が多いようです。確かに日本語にはそういう低い評価のニュアンスがあります。しかし一方では、英語を上手に話すことをペラペラといいます。ペラペラは正に薄っぺらいことですから、英語を流暢に使いこなせることへの憧れはあっても尊敬的なニュアンスは、元々は低かったと思われます。

近年になって外国語が流暢に使えることへの評価が高くなってきて、ペラペラであることへのニュアンスが変わってきたように思えます。実際、通訳や翻訳への評価は未だに低く、専門職としての報酬は高くはありません。これは幕末の通詞の時代から変わっていません。大げさにいえば、日本の文化はことば、とくに発言への評価は低く、文字化した表現でないと認めないような傾向は今も続いています。「口約束」は録音でもないかぎり、証拠能力は低く、証言の信憑性は欧米に比べて低いです。逆にいえば嘘への罪意識も低いといえます。「口が上手い」というのは嘘も多いというニュアンスを含みます。そのため議論が苦手で、反論はさらに苦手です。まして外交のような駆け引きは苦手な人が多いです。それよりは同調して、みんな同じになることが理想であり、孤独になることを極端に恐れる傾向が強い国民性となっています。その結果、自己肯定よりも誰かに認められる承認欲求が強くなります。これは駆け引きにおいて弱点になります。外交や社交の価値を理解することも文化理解につながります。

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