非言語伝達とは何か


非言語伝達

非言語伝達とは定義上「言語以外の伝達」なので、範囲は無限に近くなります。どこまでを対象とするか、で研究方法も違ってきます。一方で、言語と非言語の境界も曖昧です。非言語情報の定義の仕方は「○○以外」という方法なので、対立的な概念ではなく、1つを強調するために、その他を排除する概念なので、相手方が無限になるという矛盾が生じます。この非言語情報を定義した人は、言語こそが伝達手段という思い込みが前提にあったことがわかります。

定義が曖昧のため、研究結果も曖昧になります。ある学者はコミュニケーションの80%が非言語伝達で、言語による伝達は20%に過ぎない、と強調しました。どうやって測定したのかが示されていないので、結論も怪しいのですが、そもそも伝達内容をどのように数量化したのか不明です。当時は人間の行動観察が盛んで、スキンシップとかボディランゲージという表現が流行っており、ビジネスに活用しよう、というノウハウ本が溢れていました。

言語に強い伝達力があることは誰もが認めるところですが、過剰に評価する人には、もしかすると宗教的背景があるのかもしれません。キリスト教では言語は神の理性そのものと考えられており、その象徴的な表現が「はじめにことばありき」です。また神の言葉、イエスの言葉を絶対視し、聖書を絶対視します。キリスト教のみならず、“同系列”であるユダヤ教やイスラム教においても言語の絶対視があります。これらの宗教が背景にある文化では、言語の絶対視は当然のことであり、議論の対象にすらなりません。非言語の重要性を認めるにしても、あくまでも言語が中心であることが前提になっています。一方で、仏教やヒンディ教やアニミズムの宗教は言語の重要性は認めるものの、絶対視はしていません。アニミズムでは神性や仏性を言語以外にも認めています。

結論としていえば、非言語情報という概念とその研究方法は欧米的という枠組みになります。欧米の伝達方法の研究の枠内であれば、問題はないです。しかし、欧米以外の伝達に敷衍しようとすると矛盾が出てくることが、予想されます。

1つの例ですが、「禅問答」というなかなか難しい高度な伝達交換の場があります。「そもさん」「せっぱ」という問答の掛け声の後、ほぼ無言でやりとりが行われます。禅の世界では、禅問答は仏教の禅宗を修業する人が迷いの世界を超え、真理を体得するために行う問いかけと答えのやり取りをします。何が起こったのか、何が起こるのかではなく、本当に重要なことは何かを熟考するように求めることで、真理を体得するために行います。禅では不立文字といい、文字やことばによる学びだけで成り立つのではなく、実際に修業をし経験をする過程で、はじめて教えを習得していくという意味です。教外別伝、直指人心、見性成仏と並び禅の基本的な思想を形成しています。宗教的に重要な思想をほぼ非言語によって伝達する修行をするわけです。

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