日蘭和親条約
安政2年(1856年)12月23日、江戸幕府とオランダは和親条約を締結しました。それ以前の幕府の鎖国体制においては、日本と李氏朝鮮及び琉球王国との関係は通信とされ、貿易が行われたのみならず国交がありました。しかし、オランダと中国との関係は通商とされ、貿易は行われたものの国交はなかったのです。オランダ商館が平戸から、現在の長崎市の出島へ移されて以降、オランダ人の行動範囲は出島に限定されてきました。しかし、この日蘭和親条約の締結の結果、オランダとの関係は通商から通信となり、両国間の国交が結ばれることとなったのです。また、オランダ人は出島から長崎市街への出入りが認められるようになりました。
日本人の歴史観からすると、オランダとはこうした経過もあり、現代の日本人の多くはオランダに対して好感をいだいているのではないでしょうか。しかし現在のオランダ人の感情は日本に対して、よいとはいえない状態にあります。その原因は太平洋戦争中の現在のインドネシアの戦いにあります。
1602年オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まりました。前世紀にこの地域に到達していたポルトガルやイギリスを追いやってこの地域における主導権を握り、次第に支配地を現在のインドネシアの領域全体へと拡大していきました。19世紀に入るとナポレオン戦争によるオランダ本国の混乱もあって一時支配力が弱まりますが、オランダ東インド会社が解散されて本国による植民地直接統治が始まり、オランダ人によるプランテーション経営が広まって経済的な搾取は強まりました。その後、1942年日本軍の侵攻によってオランダの植民地支配は崩壊します。オランダによって捕らえられたスカルノらの民族主義運動の指導者を解放し、オランダ支配下で迫害されていたイスラム教の存在を認め、イスラム教徒による活動を自由化し、オランダが行っていたオランダ語による初等教育、高等教育に変わって、インドネシア語と日本語による教育を行きました。1945年8月18日インドネシアは憲法を制定しました。オランダはこの独立宣言とスカルノの大統領就任を認めませんでしたが、1949年オランダ-インドネシア円卓会議によりオランダ独立を承認しました。オランダは日本によって植民地を奪われたと思っている人が多いのです。
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