吉原移転
明暦2年(1657年)12月24日 、江戸幕府は日本橋葭町(よしちょう)の葭原(吉原)遊廓の浅草千束への移転を命令しました。葭町は芳町となり、現在は日本橋人形町となっています。芳町を含む現在の日本橋人形町周辺はかつて「元吉原」と呼ばれる遊里が繁栄を極めていました。しかし、江戸市域の拡大や1657年の明暦の大火により、浅草への遊郭移転(新吉原)がなされ、その後芳町には中村座をはじめ歌舞伎の芝居小屋も立ち並ぶようになりました。有名な玄冶店(げんやだな)も近くです。芝居に付随して陰間茶屋が生まれ、若衆と呼ばれる少年が客を取るようになりました。当時の役者は男娼を兼ねていたのです。それが後の芳町花街の始まりでした。元吉原は葺屋町(ふきやちょう)にあったようです。沼地であったのを埋め立てたのが葭原の語源という説もあります。町名は屋根葺職人が多く住んでいたことによります。隣接の堺町とともに、寛永(1624~1645年)~天保年間(1830~1844年)にかけ、200年余の間賑わった歓楽街です。寛永11年、京都の村山又三郎がこの地に村山座を創設、後に市村座と改称します。櫓太鼓の鳴り響く、芝居茶屋の多い町であったそうです。天保の改革により天保13年、市村座は浅草猿若町に移転しました。
現在のこの付近はかつての面影はまったくなく、町名も変わったので、昔、歓楽街であったことは住民もほとんど知りません。歓楽街というのは時代と共に移転していくことが多く、江戸だけでなく、京や地方都市でも昔の遊郭の跡はひっそりとしています。吉原は現在でも台東区の浅草の奥に風俗街として存在していますが、浅草に観光にくる人たちはほぼ知らないと思われます。現在の東京の歓楽街は新宿歌舞伎町や六本木、池袋などであり、江戸時代まで遡らなくても、戦前にあった三業地と呼ばれる地域も今はほぼなくなりました。三業地とは料理屋、芸妓屋、待合の三つを三業と呼び、許可が必要な営業だったことに由来し、これらの業種が集まっている地域を特別な遊興地として三業地と呼んでいました。料理屋は今のレストランとは違い、芸妓を呼ぶような料理屋で、芸妓屋とは芸妓を抱える店、一般に置屋と言われていました。待合とは芸妓を呼んで遊ぶところで、料理屋と混在する場合、料理屋で芸者遊びをした後にアフター的に使われたのだそうです。戦前までは重要な産業でもありました。
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