正倉院と廬舎那仏
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8歳(756)水無月二十一日、聖武天皇の遺品が東大寺蘆舎那仏に献納され、後にこれを収納する為の正倉院が建立されました。聖武天皇は大変な人生を送られた方で、文武天皇の第一皇子として生まれ、7歳で父と死別、母が心的障害に陥り、やがて病気が平癒した母との対面を果たしたのは37歳の時でした。こうした事情のため、父方の祖母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位しました。やがて元服が行われ立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、伯母(文武天皇の姉)が元正天皇として「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになります。24歳の時に元正天皇より皇位を譲られてようやく即位することになりました。
聖武天皇治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していました。藤原氏は光明子(父:藤原不比等)の立后を願っていたのですが、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していました。ところが長屋王の変が起き、長屋王は自害、光明子は非皇族として初めて立后されました。長屋王の変は光明子を皇后にするために不比等の息子の藤原四兄弟が仕組んだものともいわれています。聖武天皇の後宮には他に4人の夫人がいて、光明皇后を含めた5人全員が藤原の縁者でした。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741)には国分寺建立の詔を、天平15年には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出しました。加えて度々遷都を行うことで災いから脱却しようとしたのですが反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。その間、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなり、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄)が執り仕切ました。その頃は、耕されない荒れ地が多いため、天平15年(743)に墾田永年私財法を制定したのですが、反面、これは律令制の根幹が崩れていく原因となりました。
天平勝宝元年(749)娘の阿倍内親王に譲位し孝謙天皇となりました。これが譲位して太上天皇となった初の男性天皇となりました。この時代は譲位も頻繁で、多くの女性天皇が出現したわけです。
天平勝宝4年(752)、東大寺大仏(廬舎那仏)の開眼法要を行いました。天平勝宝6年(754)には唐から鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会いました。鑑真は律宗の開祖で唐招提寺を建立しました。遣唐使は日本から唐に学びに行くことですが、鑑真はすでに高僧であったのに苦労して日本に到着し、日本に戒律の教えを伝えたわけです。鑑真は大宰府観世音寺の戒壇院で日本初の授戒を行い、翌年には平城京に到着して聖武上皇の歓待を受け孝謙天皇の勅により東大寺大仏殿に戒壇を築き上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。常設の東大寺戒壇院が建立され、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が全国に急速に整備されていきました。鑑真は天台宗関係の仏典を日本へ数多く伝えており、戒律の伝承というよりも、むしろ天台宗を伝えたことに意義があるという人もいます。この時代に日本の仏教が大きく変わったといえます。聖武の七七忌に際し光明皇后は東大寺盧舎那仏に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献しその一部は正倉院に残されています。正倉院御物は日本の宝であり外国に接収されなかったのは幸運でした。
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