延喜式と紫式部


紫式部

2024年2月5日は旧暦12月26日です。延長5年(928年) 右大臣藤原忠平が延喜式を奏進しました。藤原忠平は延喜の治と呼ばれる政治改革を行いました。宇多天皇、醍醐天皇につかえ、朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられ、村上天皇の初期まで長く政権の座にありました。宇多天皇の時代は寛平の治と呼ばれ、摂関を置かずに天皇が親政をし、藤原時平と菅原道真らが政治を主導した時代です。寛平9年(897年)に宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位すると、時平は左大臣、道真は右大臣に並んで朝政を執りましたが、やがて政争が起き道真は失脚しました(昌泰の変)。時平が政権を握り、諸改革を行いましたが、延喜9年(909年)、時平は39歳で早世し忠平は次兄・仲平を差し置いて、従三位権中納言・蔵人別当・右近衛大将となり、藤氏の長となりました。以後、醍醐天皇の許で出世を重ね、大納言に転じ、左近衛大将を兼ねるようになります。延喜14年(914年)右大臣を拝し、延長2年(924年)正二位に叙し、左大臣となります。延長5年(927年)、時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させました。農政等に関する忠平の政策は、兄・時平の行った国政改革と合わせ「延喜の治」と呼ばれています。

紫式部は生年も没年も不詳ですが、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、少なくとも寛仁3年(1019年)までは存命したという説があります。延喜の少し後に生まれたようです。この頃は延喜が23年間続いたのが例外的で、元号の改変つまり改元は短いと3年、長くても5、6年程度で行われ、同じ天皇の時代にも数回改元が行われました。原因は疫病や天変地異が頻繁に起こったためです。天皇の在位期間も短かかったのです。源氏物語の優美な世界から想像するイメージとは真逆で、世の中は騒然としていて、天皇もしばしば変わり、改元も頻繁にあって、落ち着かない世の中であったというのが歴史です。

延喜式というのは三代格式(さんだいきゃくしき)の一つで、平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式(律令の補助法令・いわゆる取説)を総称して三大格式といいます。延喜式は全50巻、約3300条からなっていて、巻1 - 巻10を神祇式といいます。巻1と巻2 - 定例祭 (通称:四時祭、四時祭式など)巻3 - 臨時祭 (通称:四角祭・四角祭式、四境祭・四境祭式、四角四堺祭など)巻4 - 大神宮巻5 - 斎宮巻6 - 斎院巻7 - 踐祚大嘗祭巻8 - 祝詞巻9と巻10 - 神名帳 (通称:延喜式神名帳)となっていて、この神名帳とは神社の一覧表であり、祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載されているそうです。延喜式神名帳に記載があるのは当時朝廷から重要視された神社であり、一般に式内社と言って社格の一つとされています。現在では消滅したり不明となっている神社も多いのですが、格式を示すものとして、今でも神社の縁起や看板に書かれています。世の中や政治がかなり不安定な時代になる前の醍醐天皇の時代に全国を調査し、神道の内容を整理した記録として歴史的に重要な意味があります。

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