プロセティック・ホリズム prosthetic holism


補綴

補綴を英語でprosthetics といいます。Holismは全体主義のことですから、直訳すると補綴全体主義となるのですが、その語から連想される内容はまったく違います。まず全体主義というと「個人の自由や権利を否定し、国家の利益や統制を最優先する思想や政治体制のことです。 全体主義は権威主義の極端な形態で、国家は人々の生活のすべてを管理し、独裁者やカリスマ的指導者によって支配されることが多いです。」という解説が一般になされます。しかしholismには「全体論」という訳語もあって、全体論と全体主義は根本的に異なります。全体論とは簡単に言うと「生物は無機物と違った独自の生命力を持ち、それゆえ、全体としての一つの生物は、その生物の各部分を足し合わせたもの以上の、全体としての原理を持っているとする説。」(https://kotobank.jp/全体論)ということです。要約すれば「全体は,単なる部分の集合ではなく独自のものを持ち,全体を部分や要素に還元できない」ということです。これはスポーツのチームを考えれば、簡単に想像できます。個人個人の能力に違いがあるだけでなく、チーム一丸となると別の力になるということは日本人ならすぐわかります。いくらオータニが優れていても、チームが弱ければ勝てないのと同じ原理です。チームの力というのは全体があって初めて存在します。

人間の器官も同じことで、全体的なシステムとして機能しており、個々の器官の集合ではありません。1つの器官を失うと、そこだけに留まらず身体全体が不全状態になりがちです。医学的に「部品交換」するとか、器具によりサポートするのが補綴という思想ですが、実際に補綴によって機能を回復した場合、元に戻るのではなく、新たな世界に展開するのが普通です。パラスポーツが示しているように、補綴によって新たな道に進むことができます。それは補綴がなかったなら、知ることができなかった世界でもあります。それは精神性の問題だとする説明もできますが、その精神性はどこからくるのでしょうか。現代の脳科学は多くの精神的現象を脳の働きとして説明しようとし、その部位の特定に努力しています。それ自体、無意味とはいいませんが、しかしその部位の損傷に対しての補綴はまだできていません。あるいはAIによって置き換えられると信じている人もいます。そうした人々の思想は全体論ではなく、部分論ともいうべき「全体は部分の集合にすぎない」という思想で、自然科学系の人々の多くがそう信じています。こういう思想を要素論elementalismというのですが、例えばDNAのふるまいを完全に究明すれば生命現象は理解できるなどと主張する立場です。そう考えなければ研究が進まないのも事実です。しかし研究者は一方で、「生命の不思議」という説明になってしまう、メカニズムだけでは説明のできない現象にしばしば出会います。その説明を神の存在に求めてしまうこともありますが、そもそもそれも要素論の範囲にあります。哲学的には難しい問題ですが、現場的には補綴によって新しい世界があることを、障害をもつ人々に理解してもらおう、というのがprosthetic holismです。

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