教師の板書の効用
最近の小学校ではタブレットが使用されたり、電子黒板によって画像が提示されることが増えているそうです。先生はそのための準備が大変だそうですが、授業の準備が大変なことは昔と変わってはいません。画像を準備するのはかなり時間を要するので、提示時間が短い割に製作時間が長いのでタイムパフォーマンスはあまりよくありません。また提示時間が短く、次々と展開していくため、ノートを取ったり、考える時間がほとんどないため、記憶に残りにくいという欠点もあります。生徒側からすると、いちいちノートに書くという面倒がなくなり、情報はダウンロードによって確保することができるので、便利に思えます。
しかし一見便利にみえるこの方法は先生側も生徒側も学習したような気になるだけで、実質的な学習にはなっていない危険性もあります。一見、効率が悪いように見える、先生が板書して、それをノートに写すという作業は時間的には無駄のように思えますが、書き写すという作業を通じて、記憶に残る、という利点もあります。
本来は先生の話した内容を理解して、それをまとめてノートに取るというのが理想的な学習方法ですが、そのためには話す側が内容をきちんとまとめてあり、わかりやすい話しかけが必要です。また聞く側も内容をきちんと理解して、それをまとめる能力が必要です。普通はこうした形式の授業では時間をゆったりとらないと成立しませんし、同時に質疑応答の時間とか、討議の時間などを設けて、理解を深めておく手間も必要です。そのための教師側の準備も必要です。こういう「古典的」な授業はもうほとんど見られなくなりました。その原因は内容が詰め過ぎであること、カリキュラム遵守が厳し過ぎること、授業内容の統一性、といった画一的教育が推進されてきたことにあると思います。教える先生にもいろいろなタイプがあり、教わる生徒にも理解度に差があり、興味も異なっていて、先生と生徒の組み合わせには多様なものがあるもの、という大前提がなくなっていることにあります。「多様性」が叫ばれる今日、教育現場にも多様な状況や多様な方法が導入されるべき時代になっています。しかし学校教育はモンテソリ法を導入している学校を除き、統一教材、統一教科内容、統一指導法による大量生産のような形が日本では浸透しており、そこからはみ出すと教師としては落第という烙印を押されることになります。教育界ではカリキュラム、教科書、教師養成が教育の三本柱として重視され、カリキュラムと教科書は文部科学省という役所が支配し、教師養成は大学の教育学部か教職課程において実施され、教員免許状がないと教壇に立てない仕組みになっています。そして教員採用は公立では教育委員会という官僚組織になっています。しかしこれが「世界統一」ではなく別の教育制度の国も多くあります。また電子化を促進せず、口頭と書き取りによる教育や板書重視の教育方法をとっている学校や国も多くあります。いま一度、板書の効用を見直すことも必要な時代と思います。
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