教師の時間的制約と教育費



教師は小学校から大学まで、授業時間という細切れの時間に支配されます。授業のほとんどは60分ですが、大学では未だに90分のところがほとんどです。なぜ90分なのか、という根拠はどうもはっきりしません。脳科学的に集中できる限界が90分という説明をしているところもありますが、この時間が始まったのもいつからなのか、はっきりしません。一方で文部科学省は大学設置基準で単位数を決める根拠を時間数に置いていて、「単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準」としています。45時間という数字の根拠は45×9で、あと1回を試験に当てると10回で完結する、と考える思想です。実技の場合は予習復習は不要なので1単位ですが、講義の場合、予習復習に3倍の時間がかかるという想定で4単位とし、語学などは2倍の時間がかかるということで2単位になっています。しかし現実は語学の予習はかなり時間がかかる一方、講義科目は講義を聞くだけでおしまい、という学生がほとんどです。これは大学の授業の内容が欧米ではまったく異なるのに、形式だけ欧米式を採り入れた結果です。

一方で最近は講義時間を100分や110分にするところも出てきていて、脳科学的根拠も怪しいものです。さらには最近の若者は動画も早送りして見ることに慣れていて、90分の授業についていけない、集中できない学生も増えてきています。

しかし大学のカリキュラムと時間割は設置基準を守って、年間授業時間数を配分することのみに腐心して作られています。それを守らないと補助金がもらえないとか、様々な制約を受けます。つまり国を挙げて「時間数をこなす」ことだけが教育目標になっていて、中身は「自由」という名目で放置したままです。教師の側にもノルマがあり、時間数をこなすことが仕事になっています。この傾向は大学だけでなく、小学校から高校、予備校に至るまで浸透しているシステムです。これも大量生産と同じ思想で、生徒は個人により集中できる時間も、習熟度も違うことを無視して、一定時間を教育すれば同じ成果が得られると考える思想が浸透しているからです。しかし実際にテストしてみると、習熟度に大きな差があって、速度や時間は個人に合わせるべき、ということは教師なら誰でもわかっています。そこでその矛盾を埋めるため、家庭教師や塾があり、実際に効果を上げていて、繁盛しており、乱立しているのが現状です。塾は文部科学省の制限を受けないため、授業時間も自由であり、補習や自習を採り入れています。その費用は親が負担しているのですから、家計に占める教育費の割合が高いことが庶民の悩みです。いくら公教育を無償化しても、こうした補習の費用は無償化されないので、庶民の経済格差はなくなりません。いいかえると、時間による労働内容の制約は教師だけでなく、教師はノルマ以外の労働時間が延びる一方で過労が問題になるのと同時に、家計の教育費負担も増えているのが現状です。

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