母語話者崇拝
昨日は八十八夜でした。茶摘み歌で有名ですが、夏が近づいてきているというわけで、もうそんな時期なのか、と思う人も多いことでしょう。こういう感覚は日本人独特のものです。こういう習慣の意識というのは、そこに育った人がもつ文化です。世界のどこの人でも、そこで得た文化の感覚は自然と頭に浮かぶものです。そういう文化の1つが言語です。八十八夜にしても、そういう表現があり、歌を連想し、夏を連想していく、という脳の処理プロセスがあります。言語のこういう側面を直観と呼んで、それが言語判断において最重要である、と考える人々がいます。そしてそういう直観を有する人を母語話者(native speaker)と呼び、その判断を特別に尊重する思想の言語学者もいます。母語話者と呼ばれる人は「違和感」によって、その表現が正しいかどうか、つまり文法的かどうかを判断できます。そこでその直観を頼りにその言語の構造を解析することが文法解析となる、という考え方です。そしてこの直観を生み出す言語習得のしくみは生まれつき(生得的)に備わっている、と考えます。この言語思想は半世紀前に始まり20世紀を席捲し、今もその思想に従っている人もいます。この「生まれつき」がnativeということです。しかしよく考えてみると、言語はその土地で生まれただけで獲得できるものではなく、その後の学習によって獲得していきます。またどういう両親の元で育ったのか、周囲にどういう人がいるのか、といった環境によっても獲得する言語の内容が違ってきます。両親の言語が違えば子供は二言語話者(バイリンガル)になります。また頻繁に国などを移動すれば、いろいろな言語を獲得した多言語話者(ポリグロット)になります。さらに同じ言語にも社会階級差や地域差などによる変種(ダイアレクト)があり、育った環境により獲得する変種が違います。人間の言語獲得はかなり複雑な構造になっています。一口にネイティブとまとめることはできないのです。しかし語学の世界では、なぜかネイティブ崇拝のような傾向が残っています。昔は外国人を見ることは稀でしたし、外国語を学ぼうとすれば書籍か、ある人から習うしかありませんから、当然、その人の変種を学習することになります。その変種をうまく獲得すればするほど、実際の使用場面では、その人の社会階層や地域まで再現することになります。日本語のように女性コトバと男性コトバが違う社会では、先生が女性か男性かによって習得した変種は違ってきます。また大阪で習うか東京で習うかなどの違いも現れてきます。学習する側はそもそも変種を意識していませんから、どれも「日本語」なわけです。一方、書籍で学習する場合は文語ですから、標準的な変種ではありますが、実用上は「固い表現」になります。つまり学習方法と学習環境により、獲得する変種が変わってくるのです。母語話者から習うことが悪いわけではありませんが、変種であることを教師の側も生徒の側も認識しておくことが大切です。語学教室ではネイティブ崇拝が今も続いていますが、学校側も気づいていないか無視していることが多いのが現状です。
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