古典に学ぶ


古典

専門分野によっては、古典を蔑み、最先端であることを自慢する論文をよく見かけます。自論の新奇性を主張するのはかまわないのですが、古典を蔑む必要はまったくありません。もしその自論が定説化すれば、やがて近い将来、自身が古典扱いされることは間違いないからです。学問を今だけのものと考えるのが間違いなのです。学問は過去から現在まで続いていて、さらに未来へと続いていくものです。その意味では最先端をありがたがる意味はほとんどありません。最先端であるのはほんの一瞬です。それを追いかけるのは労多くして益少なしです。

学問はどの分野でも、ある程度発展すると行き詰まりのようなものにぶつかります。それは学問の世界では完璧ということがないからです。完璧だと思って研究していても、必ずどこかに穴があり、そこから少しずつ崩れていきます。その欠陥こそが次の進展への鍵となります。

学問が行き詰った時、古典に戻ると新たな視点が見つかることがよくあります。なぜなら、古典というのは、ある時期、定説とされてきたものだからです。当時はみんなが認める素晴らしい書籍であり、みんなが勉強した書籍です。そして当時はそれが基本的知識として共有されてきました。しかし古典的名著といえども、やはり欠陥があり、それで次の書籍や論文にとって替わられたわけです。しかしそれでその書籍の価値がすべてなくなったわけではありません。それ故に最新理論が行き詰った時、古典を改めて読むと、当時はそこまで読み取れなかったことがわかるようになり、そこが新たな視点を生み出すヒントとなります。そうして何度も繰り返し復活してくる古典が名著でありベストセラーとなっているわけです。

古典の最たるものが聖書でしょう。最大のベストセラーであると同時に、現在でも多くの人々が日々の生活の中で必要とする教訓や人生訓を読み取ることができるのです。聖書はどの宗教にもあるのですが、当然、書かれた当時の言語は違っています。通常は解釈書があったり、別の言語に翻訳されたりしていますから、当初の意味とは違っていることもありえます。また時代背景は当然異なるので、そのまま適用するには無理があります。しかしそのまま原典に書いてある通りに適用しようという考えの人々もいて、原理主義と呼ばれています。こうして同じ古典でも解釈と思想が異なると、別の行動原理となります。これは宗教の話ですが、学問の世界でも似たようなことが起こります。科学の古典を原理主義的に解釈する人と新たな解釈を加える人がでてきます。実は、最先端理論を自称する人は自論に対して原理主義的行動をとりがちです。別の解釈を加えて展開しようとする人に対し、亜流とか曲学阿世と非難することもよくあります。

「温故知新」これは古典の1つ、論語の中の一節です。江戸時代までは読むべき古典として、日本では共有化されていました。しかし明治維新以降、西洋哲学が最先端となり、今では読む人は稀有です。本家の中国での似たような状況らしいです。今、論語にヒントがあるかもしれません。

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