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大日本史
大日本史は、江戸時代の水戸藩が中心となって編纂した日本の正史です。編纂開始から完成まで、実に250年以上を要したこの大事業は、単なる歴史書にとどまらず、近世日本の思想や政治意識、そして国家観を体現した存在として、今もなお高く評価されています。大日本史の編纂が始まったのは、17世紀後半のことです。水戸藩二代藩主・徳川光圀(とくがわ みつくに)が、歴史を通じて人心を正し、徳川家の支配正当性を高めること・・・
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下関条約と台湾占領
明治時代の日本にとって、日清戦争(1894〜1895)はその後の国際的地位を大きく変える契機となりました。この戦争の終結をもたらしたのが、下関条約(馬関条約)であり、その中で日本は清から台湾を獲得します。これに伴い、台湾への軍事占領が実行され、日本の植民地政策の第一歩が刻まれました。下関条約と台湾占領は、アジアにおける帝国主義的進出の象徴であり、日本近代史の転換点でもあります。1895年4月17日・・・
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寛文印知令(かんぶんいんちれい)
江戸時代の前期、幕府が全国的な支配体制を固めるなかで、土地に対する権利の確定と整理は極めて重要な課題でした。そのような背景のもと、寛文四年(1664)に発布されたのが寛文印知令です。この法令は、全国の諸大名に対して改めて知行地の確定と文書による確認を命じるもので、幕藩体制下における封建的土地支配の安定を意図した政策として評価されています。「印知」とは、主君が家臣に対して知行地を保証するために与える・・・
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三国干渉――列強の圧力と日本の苦悩
三国干渉――列強の圧力と日本の苦悩 明治28年(1895)5月10日(旧暦)、日清戦争に勝利した日本は、清国との間に下関条約を締結しました。その条約により、清は日本に遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲し、賠償金も支払うことが定められました。列強の一角に足を踏み入れたかに見えた日本でした。しかしその直後に起こった「三国干渉」は、日本にとって大きな衝撃であり、近代日本外交史の転機となった事件です。三国干渉・・・
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ロンドン覚書
文久2年(1862)5月9日(旧暦)ロンドン覚書という条約のようなものが締結されました。幕末の日本は、欧米列強との外交関係を築きながらも、国内の政治的混乱や攘夷運動の高まりに直面していました。特に、1858年に締結された安政五カ国条約に基づく開港・開市の問題は、幕府にとって大きな課題でした。こうした状況の中で、幕府は開港・開市の延期を求め、1862年にイギリスとの間で「ロンドン覚書」を締結しました・・・
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新田義貞と修身
正慶2年/元弘3年(1333) 新田義貞が上野国で北条氏討伐の旗揚げをしたとされています。後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった人物ですが、楠木正成に比べると現在の知名度は低いかもしれません。しかし、昔の「修身」という科目では、楠木正成の「桜井の別れ」のエピソードと共に、新田義貞が鎌倉の稲村ケ崎で太刀を海に奉じて、龍神が潮を引かせた、という話が載っていました。この話は印象的なせいか、・・・
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六波羅探題
正慶 2年/ 元弘 3年(1333) 倒幕に転じた足利尊氏 の攻撃により京都・ 六波羅探題 が陥落しました。六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つで、承久3年(1221)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北方と南方に設置した出先機関の名称です。探題と呼ばれた文献上の初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていたようです。探題というのは、本来は仏・・・
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薩長同盟
慶応元年(1865)閏5月、 坂本龍馬が長州藩の桂小五郎と会談し薩長連合が始動したとされています。薩長同盟は、江戸時代後期に、坂本龍馬の仲介で近衛家別邸御花畑屋敷(小松帯刀邸)(京都市上京区)で締結されました、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長連合ともいいます。その前の薩摩藩は公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて・・・
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最上徳内
天明6年(1786)5月5日(旧暦)江戸幕府の命を受けた最上徳内(もがみとくない)が択捉島(えとろふとう)に上陸しました。最上徳内は間宮林蔵に比べると、あまり有名ではありませんが、間宮より少し前の江戸中期から後期にかけて北方を探検した人です。「実家は貧しい農家だったが、長男であるにもかかわらず家業を弟たちに任せ学問を志し、奉公の身の上になり奉公先で学問を積んだ後、師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷・・・
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風土記の始まり
風土記というのは時々、番組のタイトルになることがありますが、その起源はかなり古く、奈良時代初期の元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂したものが最初です、風土記とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことを指すますが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書を意味します。つまり定義は意外に曖昧なので、奈良時代の官製の風土記を普通の風土記と区・・・
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日本海海戦
日本海海戦は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で行われた海戦です。主力決戦は対馬東方沖海域で行われたため、日本以外の国々では、この海戦を対馬沖海戦と呼んでいます。第2・第3太平洋艦隊はロシアのバルト海艦隊(バルチック艦隊)から引き抜いて編成されたものであるため、日本ではこの・・・
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飛鳥板蓋宮
皇極天皇2年(643)4月28日(旧暦)皇極天皇が飛鳥板蓋(いたぶき)宮に都を移しました。板蓋宮は、7世紀半ばに皇極天皇が営んだ皇居で、一般には飛鳥板蓋宮と呼称されています。現在の奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったと伝えられています。642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、同年9月19日、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに建設するよう命じました。これに・・・
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千代田の刃傷
江戸城内での刃傷(にんじょう)沙汰といえば、忠臣蔵の「松の廊下」が有名ですが、実は何度もこうした刃傷沙汰が起きています。千代田の刃傷は、文政6年(1823)4月22日(旧暦)に松平忠寛(外記)によって引き起こされた刃傷事件です。 西の丸の御書院番の新参・松平忠寛(松平外記)は、古参の度重なる侮罵と専横とに、ついに鬱憤これを抑えることができず、本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の3人を殿中において斬・・・
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政体書
1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)に明治政府は政体書を布告しました。これが真の意味の明治維新でしょう。政体書は明治初期の政治大綱で、統治機構について定めた太政官の布告です。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および福沢諭吉の『西洋事情』等を参考に起草したものです。当時の最先端の政治思想ということになります。慶応3年12月9日の王政復古のクーデター、慶応4年1月3日 - 7日の鳥羽・伏見・・・
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三世一身法
養老7年(723) 三世一身法が発布されました。今では何でもないような感覚で受け止められるようですが、農地というものは個人所有でなく、領主のもの、あるいは国家のもの、という考えは未だに広く世界に広がっていることを思うと、当時の日本は画期的であったといえます。「三世一身法(さんぜいっしんのほう)は、奈良時代前期の養老7年4月17日(旧暦)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため開墾者・・・
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阿弖流為
阿弖流為(あてるい)は、8世紀末から9世紀初頭にかけて東北地方で活躍した蝦夷(えみし)の指導者です。彼は大和朝廷の支配に抵抗し、蝦夷の人々を率いて戦いました。 蝦夷とアイヌは、しばしば同じように扱われることがありますが、実際には異なる歴史的背景や文化を持っています。ただし、蝦夷の中には、アイヌとつながりの深い人々もいました。歴史の中で、東北地方から北海道に移住した人も多く、文化的な影響を受けている・・・
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ロンドン条約とルクセンブルグ
1867年5月11日、ロンドン条約が結ばれました。ロンドン条約、と聞くと「どれ?」と思うのが歴史ファンです。「ロンドン条約」で検索すると、実に多くの条約が出てきます。つまりロンドンというのは中心地であり、集まりやすい場所、ということでもあります。古くは1358年の百年戦争中にイングランド王国とフランス王国の間で締結された条約です。当時のイングランドはそれほど強国ではなく、エリザベス一世の時代に大国・・・
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間宮林蔵と樺太
文化5年(1808)4月13日(旧暦)、当時29歳の間宮林蔵は、松前奉行支配調役松田伝十郎とともに宗谷を出発し、樺太を探索することとなりました。宗谷岬から渡航して樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、漁に用いる小舟を借りました。樺太が島であればどこかで必ず出会うはずだと考えた間宮一行は、松田は西海岸から、林蔵は東海岸から樺太の探索を進めました。林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(・・・
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戦後賠償
1956年05月09日、日本国はフィリピン国に戦後賠償の条約を締結しています。金額は5億5000万ドル(当時)、1980億円です。その他にも、1955年11月05日、ビルマ(現在のミャンマー)に2億ドル(720億円)、1958年01月20日、インドネシアに2億2308万ドル(803億880万円)、1959年05月13日、ベトナムに3900万ドル(140億4000万円)と、合計10億1208万ドル(・・・
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無血開城
明治元年(1868)4月11日(旧暦)、江戸城の無血開城が行われました。これは「話し合いにより流血を避けた」という美談として知られています。しかし、現代の目で見れば「無条件降伏」と同じです。無血開城というと、本件のことを意味しますが、一般的には明け渡しであり、戦わずして城を明け渡すことは何度もありました。有名な例をとしては、「赤穂浪士」に出てくる、赤穂城の明け渡しです。浅野家が改易になって、家臣は・・・
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