秋の彼岸の入り


極楽浄土

9月19日が秋の彼岸の入りになります。お彼岸(ひがん)という行事にはなじみがあると思いますが、彼岸の意味はあまりよく知られていません。さらに彼岸の対語である、此岸(しがん)についてはクイズ並みの知識になっています。彼岸と此岸は仏教用語で、彼岸は文字通りに読めば「かの岸」であり、此岸は「この岸」です。「あちら岸」「こちら岸」ということです。そこから想像できるように、彼岸は「あの世」、此岸は「この世」ということなのですが、たんに物理的な距離のことではなく、彼岸は来世、浄土、極楽を意味していて、此岸はつらい現世ということです。此岸から彼岸に渡る、つまり死ぬことは、この世の迷いや苦しみから逃れる、という浄土思想が反映されています。ご先祖様は彼岸にいて、理想郷で暮らしているのですが、そういう方々への尊敬と敬愛を示す行事がお彼岸です。仏教では、死ねば単純に誰でも浄土に行けると考えているわけではなく、修行によって、悟りを得ることによって、彼岸に渡れるということになっています。この修行にはいろいろな考え方があり、種類もたくさんあります。その考え方によって宗派が分かれている、と考えてもよいと思います。修行というと、何か苦しいこと、辛いことに耐える、というイメージがあるかもしれませんが、それは苦行という種類の修行です。難行苦行という言葉がありますが、修行の中には苦難を伴うものもあります。僧になるには、そういう行を義務化している宗派もありますが、宗派に共通する修行は三学です。三学とは、「戒(かい)」「定(じょう)」「慧(え)」の3つです。「戒」とは戒律を守って煩悩(ぼんのう)をおさえること。「定」は観法などで精神を集中して煩悩をさえぎること。「慧」は煩悩を断つということです。つまり煩悩との闘い、ということになります。煩悩とは一般にいう欲望のことです。人間誰しもいろいろな欲があります。特に、お金や名誉の名利(みょうり)、男や女などの愛欲が強い人がいて、それを求めて強い行動にでる人が多いのです。それらの欲を断つというのは相当な覚悟がいります。その煩悩を断つ方法を教えてくれるのが仏教ということです。完全に欲を断って悟ることができれば仏になれます。実は人は死ねば、自然にこうした欲からは解放されます。それで亡くなったご先祖様たちは悟って、あの世で仏になっていることになります。仏になることが成仏(じょうぶつ)ですが、死んだらすぐに自動的に全員が仏になるわけではなく、前世の因縁やこの世での行いによって審判を受けます。その裁判官が閻魔大王です。成仏できなかった人は地獄で罰を受けています。つまり彼岸にはいません。現世の自分がご先祖様のように無事に彼岸に達するには、ご先祖様に教えを請い、修行をしなくてはなりません。お墓の清掃やお墓参りの供養も修行の1つとされています。普段は煩悩に負けて、ほったらかしでも、せめて春と秋の彼岸には修行をしたいものです。逆にいえば、難行苦行を一時するよりも、普段から三学を守るような生活をすることも修行で、実はその方がむずかしいかもしれません。

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