メディア・リテラシー
6月27日はメディア・リテラシーの日だそうです。長野市に本社を置くテレビ信州が制定したもので、1994年(平成6年)のこの日、松本サリン事件があり、事件現場近くに住む無実の男性がマスコミにより犯人扱いされる報道被害がありました。テレビ信州では報道機関におけるコンプライアンスの基軸としてメディア・リテラシー活動に取り組んでいて、この日にはメディア・リテラシーに関する番組の制作やシンポジウムが行われる、とのこと。つまりはマスコミ反省の日ですね。
「メディア・リテラシーとは、情報が流通する媒体(メディア)を使いこなす能力のこと。情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜く能力が必要とされている。」だそうです。つまりは読む側の責任ということでしょうか、随分高飛車で上から目線の話だと思います。
そもそもリテラシーliteracyというのは元々、識字力のことです。世界には文字の読めない人がまだ大勢います。文字が読めないということは読み書きができないということで、そこから発展して現代では「適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する能力」ということなので、メディア・リテラシーはむしろメディア側の発信力を高めるのが先だろうと思います。松本サリン事件は報道側の事実確認を無視した思い込み報道の結果、無辜の市民が犠牲になったのですから、リテラシーを高めるべきはマスコミ側です。しかし現状を見るかぎりマスコミの能力は高まるどころか、むしろ低くなっているのではないか、と思えます。
昔は文字を一部識者だけが独占していました。宗教でも聖書が読める人はごく一部の聖職者だけでしたが、その聖職者が自己の解釈を加えて説教する弊害が酷くなったため、宗教改革により誰でも聖書が読めるようにすることが重要になり、それに一役かったのが印刷術の開発でした。現代になると、情報がかつては一部に独占されていてマスコミが聖職者よろしく自己解釈を加えて報道していたことの弊害が大きくなり、インターネットというリテラシーメディア改革により、また動画配信という文字があまり介入しない手法によって、誰でも情報にアクセスできるようになったということです。インターネットが印刷術の役割を果たしているといえます。その証拠として、印刷がだんだん衰退していることが挙げられます。
印刷が主力の時代でも新聞情報の真偽を見抜く能力が必要でした。しかし多くの新聞を比較し、ラジオやテレビ、そして外国の新聞などを見て真偽を判断していた人がどれだけいたでしょうか。マスコミはネット情報の氾濫を盛んに喧伝しますが、当時でも情報は結構氾濫しており、それらにアクセスできる人が少なかっただけのことです。そのため一部の新聞しか読めない人は判断が偏ることは避けられませんでした。
インターネットになってもその状況は変わりません。愛読新聞が愛読サイトになっただけのことです。つまり、受信者の能力と責任が大きくなるのではなく、発信者の責任と能力が問われるのです。SNSがよくマスコミで問題視されますが、口コミや井戸端会議が文字化、動画化しただけのことで、YouTuberは街角情報誌発行人と変わりません。しかし彼らもプロ化してきており、マスコミ以上のレベルの人も出てきています。ヨーロッパ中世の教会が権威を嵩にかけて弾圧しても宗教革命によって広がっていく個人的な小さな教会を止めることはできませんでした。今メディアで同じようなことが起きていると思われます。
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