経済の語源



経済という語はもう普通に日常的に使用されているので、語源といわれてもピンとこないかもしれませんが、元は経世済民または経国済民の略語です。経世済民(けいせいさいみん)は、中国の古典に登場する語で、「世(よ)を經(をさめ)、民(たみ)を濟(すくふ)」の意味です。本来はより広く政治・統治・行政全般を指す語でした。今日の「経済」は英語のEconomyの訳語として近世から使われるようになりました。訳語は本来の意味から変化することはしばしばありますが、経済はその一例です。その原義からすると「経済優先の政治」ということは語義矛盾ということになりますが、今日では誰も疑問を抱きません。しかし、今日ではいわゆる経済の政治における意味が大きいことを考えると、原義をもう一度理解することも必要でしょう。少なくとも、経済は済民つまり「民を救う」ものであってほしいものです。近世以前の日本では、「経世済民」あるいは「経国済民」が一つの言葉として用いられることはあまりなく、「経国」「済民」などがそれぞれ別個に用いられることが多かったそうですが、江戸時代になるとこれらを一つにまとめた「経世済民」あるいは「経済」が盛んに用いられるようになったそうです。その背景には、明末清初の中国で発展した考証学者による「経世致用の学」の影響を受け、日本でも儒学者・蘭学者などによる同種の「経世論」(経世済民論)が流行したことが関わっているそうです。この「経世論」の代表的著作の一つで、日本で初めて「経済」の語を書名とした太宰春台『経済録』(18世紀前半)は、「凡(およそ)天下国家を治むるを経済と云、世を経め民を済ふ義なり」としており、この頃の「經世濟民(經濟)の學」は今日でいう経済学のみならず政治学・政策学・社会学などきわめて広汎な領域をカバーするものであった(wikipedia)。しかし江戸後期に入って次第に貨幣経済が浸透すると「経済」のなかでも「社会生活を営むのに必要な生産・消費・売買などの活動」という側面が強調されるようになっていった。当時の大坂で「経済家」といえば、治政一般ではなく「金銀の事」に詳しい者を指したと言い、大坂商人の間では現代的な用法は既に常識的だったようだ。今日の用法に近い「経済」が普及していた(同上)。つまり近世以降は、金の世界が政治の肝である、という思想が広がったということです。現代はその思想がさらに強調され、すべては金次第という拝金主義が当たり前になってしまいました。その大本は明代後期の思想にあるので、現代中国人の拝金主義もそれが極端に発達したということもいえそうです。日本の幕末期にイギリスなどから古典派経済学の文献が輸入されるようになると、「経済」の語は新たに"economy"の訳語として用いられるようになりました。しかし経済(学)がエコノミーもしくはポリティカル・エコノミーの訳語として定着するまでには、個人(もしくは企業)の家計・会計と国家規模の経済運営を分けて考える立場があり、後者については「理財」の訳語が用いられることもありました。この新しい用法は中国(清)にも翻訳を通じて逆輸出され定着しました。

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