二重の衝撃 ―1945年8月9日、原爆とソ連の侵攻


平和記念像を描いたイラスト

1945年8月9日は第二次世界大戦末期の日本にとって決定的な二重の衝撃がもたらされた日でした。一つは午前11時02分、長崎市にプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」が投下されたこと。もう一つはその数時間前、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告したうえで、満州(中国東北部)と朝鮮半島北部への大規模侵攻を開始したという事実です。日本にとって、東と西の両方から突き刺さるような軍事的圧力が同時に襲いかかった日でした。

長崎に原爆が投下されたのは、広島にウラン型原子爆弾が投下されてからわずか3日後のことでした。本来の投下目標は小倉市でしたが、天候と煙の影響で視認が困難だったため、第二目標である長崎市に変更されたと言われています。B-29爆撃機「ボックスカー」に搭載された「ファットマン」は、長崎市の中心部に近い浦上地区の上空で爆発。一瞬にして都市は壊滅し、爆心地に近い病院や教会は影も形もなく消えました。原爆による即死者は推定で3~4万人、放射線障害や火傷などによる後遺症を含めれば、死者数は最終的に7~8万人に及ぶとされます。広島に続く二度目の原爆投下は、「核兵器による大量破壊の現実」を世界中に突きつけただけでなく、日本政府にとっても降伏への決断を促す深刻な材料となりました。

一方、同じ8月9日の未明、ソビエト連邦が日本に対して突如宣戦布告しました。これは日ソ中立条約(1941年締結)が有効であるにもかかわらず、一方的な破棄によって行われた軍事行動であり、ソ連軍は満州に大規模な侵攻を開始しました。関東軍は既に戦力を大きく削がれており、ソ連軍の近代的な機械化部隊に対抗するだけの力は残されていませんでした。さらに、朝鮮半島北部や樺太、千島列島への進撃も同時に展開され、日本の「北方の守り」は崩壊寸前となりました。外交的に見れば、ソ連が参戦することはポツダム宣言の実効性を高め、アメリカとイギリスが期待した「日本を早期に降伏に導く」ための重要な駒でもありました。

この二重の衝撃は、8月10日に開かれた御前会議での議論に大きな影響を与えました。広島に続く長崎への原爆投下は、「このままでは日本列島そのものが焦土になる」という恐怖を与え、ソ連の参戦は「中立国による仲介工作」という外交的選択肢を完全に消し去りました。政府内にはなお「本土決戦」を主張する強硬派もいましたが、天皇の聖断によって、ポツダム宣言の受諾が決定されるに至ります。8月9日は、単なる軍事的敗北の日ではなく、地政学的現実と軍事的暴力が同時に突きつけられた、戦争終結に向けた「臨界点」であったと言えます。原子爆弾という人類史上最悪の兵器がふたたび使用され、しかも戦後の世界秩序を左右する大国ソ連が日本に牙をむいたこの日は、冷戦構造の前夜とも言える歴史的瞬間でもありました。私たちは8月9日を、単なる「長崎原爆の日」としてだけでなく、「ソ連参戦と戦争終結への転換点」として記憶しなければならないでしょう。

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