マンジケルトの戦い ― 東ローマ帝国衰退の転機


マンジケルトの戦いを想像して描かれたイラスト

中東の歴史は日本から遠いこともあって、ほとんど学びません。しかし現代にもつながる側面が多いので、関心をもっていただきたいです。1071年8月26日、現在のトルコ東部で行われた「マンジケルトの戦い」は、中世の地中海世界と中東の勢力図を一変させた歴史的事件として知られています。この戦いは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とセルジューク朝トルコの間で行われ、結果はローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスの大敗北に終わりました。以後、アナトリア半島は急速にトルコ化し、十字軍運動の遠因ともなりました。

11世紀に入ると、中央アジアから西進した遊牧民トルコ系のセルジューク朝は急速に勢力を拡大し、中東の大部分を掌握しました。1055年にはバグダードに入城し、アッバース朝カリフから「イスラム世界の保護者」としてスルタンの称号を得ます。一方、東ローマ帝国はバシレイオス2世の死後、内政の混乱や軍制の弱体化に悩まされていました。セルジューク朝軍は度々アナトリアに侵入し、ローマ帝国の領土を脅かすようになります。ローマ皇帝ロマノス4世は、帝国の権威回復と領土防衛のため大軍を率いて東方遠征を敢行しました。その目的は、セルジューク朝の首都ニーシャプールを圧迫し、帝国の勢威を示すことでした。ロマノス4世の軍勢は推定で4〜7万とも言われますが、その中には信頼できる帝国兵だけでなく、ノルマン人傭兵、ペチェネグ人、アルメニア人、ジョージア人など多様な兵が含まれていました。統率は必ずしも堅固ではなく、内部には皇帝に不満を持つ派閥も存在していました。対するセルジューク朝軍は、スルタン・アルプ・アルスラーンの率いる約3〜4万。数では劣るともされますが、彼らは機動力に優れた騎馬弓兵を主力とし、草原の戦術に習熟していました。そして1071年8月26日、マンジケルト近郊で両軍が激突します。セルジューク軍はお得意の遊牧戦術を駆使し、直接決戦を避けて側面から矢を浴びせ、敵を疲弊させていきました。ロマノス軍は当初優勢に見えたものの、長引く戦闘の中で統制を失い、退却命令が混乱を招きました。さらに、後方の一部将軍が皇帝に敵対心を抱き、意図的に援軍を送らなかったことが決定打となります。結果、ローマ軍は潰走し、皇帝ロマノス4世自身が捕虜となるという屈辱的な結末を迎えました。

捕虜となったロマノスはアルプ・アルスラーンに謁見します。スルタンは寛容にも命を奪わず、比較的穏健な和約を結びました。しかし、この敗戦によって帝国の威信は失墜し、国内の権力闘争が激化。ロマノス自身も帰国後に失脚・失明の憂き目に遭いました。最大の影響は、アナトリア半島の防衛線が崩壊したことです。以後、セルジューク朝およびその後継勢力はアナトリアを席巻し、トルコ人の入植とイスラム化が進行しました。この地は以後「ルーム(ローマ)のスルタン国」と呼ばれる新しい政権が築かれる場となり、現在のトルコ民族史の起点ともなります。マンジケルトの敗北は、東ローマ帝国にとって決定的な転機でした。この危機は西欧に「東方のキリスト教国家を救え」という十字軍遠征の口実となりました。

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