手話の雑学8

手話という言語を社会的にどうとらえるか、について、単純に手話を「ろう文化」「ろう社会」と結びつけて不可分な1体という思想があります。キリスト教の三位一体のような捉え方はただしくないことがわかります。しかし、この「聾の三位一体説」は意外に欧米に浸透しており、日本は今でも信じている人が多いのが現状です。
この思想の問題点は、言語と文化と社会(コミュニティ)を一体化させて、1つの民族のように考えようということなのですが、この発想の起点はアメリカの他民族共生社会があります。アメリカは「モザイク社会」という例えがあるように、エスニックグループ(民族集団)が共存していて、それぞれが地域ごとに固まって、言語や文化、宗教、時には教育を共有しています。それが憲法によって保障されています。ところが聾者は地域性がありません。しかも親子で異なることが一般的です。よくデフ・ファミリー(聾家族)が話題になりますが、親子が聾を共有しているケースは希少です。聴覚障害が遺伝する確率は非常に低く、一説では0.02%ということですから、1万人に2名ということになります。聾同士の結婚でも、健聴児が生まれることも多く、それがいわゆるコーダ(coda or koda=children(kids) of Deaf adults)で、手話の母語話者であり、二言語話者(バイリンガル)です。言い換えると、聾の血縁性がほぼないわけです。
血縁的関係が薄い「民俗」というのがないわけではありません。イスラエル人(ユダヤ人)のように宗教的関係による「民族」もあります。聾集団を民族とする、という発想は、血縁が混じり合い、文化も混じり合い、地域性が薄く、地域の変動の多い「共生社会」ならではの発想といえそうです。言い換えるとアイデンティティつまり「自分は何者?」という疑問に対する回答が、ほぼ言語と薄くはあっても宗教しかないという社会の特徴といえそうです。実際、アメリカの国勢調査では、言語という項目が重要です。その言語集団の中で、それなりの人数がいる手話集団が民族と考えよう、というのもわからなくもありません。しかし、それが世界に敷衍できるか、というとそうではありません。そのアメリカ社会ですら、手話集団はいくつかに分かれており、ユダヤ教、イスラム教などにより別々に分かれています。宗教によるサブグループがあるわけです。正にそれが多様性の国、アメリカといえます。聾社会において、親子が別の「民族」ということには抵抗感がある人もいるでしょう。また同じ聴覚障害者に対しても、手話を母語として用いない難聴者という存在を無視しています。実際の数は、聾者よりも難聴者の方がはるかに多いのが現実です。難聴者の中には、片耳だけの難聴、軽度難聴、老人性難聴、心因性難聴など、様々な人がいて、一括りにできないのです。そうした聴覚障害者人口の中で、聾者だけを分離することは至難の業です。そこで聾団体は手話という言語で分けようとしているのですが、手話を母語として獲得することはかなり難しいのが現実です。母語として言語を習得するには、そういう言語環境が不可欠です。
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