日米貿易摩擦と尖閣諸島問題



一見関係のない2つの政治課題が密接につながっていたことをご存じでしょうか。今から50年前、1972年1月3日、日米繊維協定が調印されました。この問題をめぐる日米間の貿易摩擦がその後も続く各種貿易摩擦の始まりで、現在は同様の貿易摩擦が米中で行われている、といえるかもしれません。この日米貿易摩擦の裏側で沖縄の返還と尖閣諸島の帰属問題があったことはあまり知られていません。綿花とか繊維問題といえば、現在はウイグル問題との関りで中国との摩擦になっていて、日本と直接の関係はほぼない状態です。日本は中国からの輸入が中心で、米国と中国の貿易摩擦があっても米国に従うだけの立場なので、国内市場価格が上がって困る程度の関心しかないのが実情です。

綿花と綿繊維製品の歴史は古く、とくに大量生産による輸出が目立つようになったのは19世紀の英国で、当時は奴隷制度もありました。英国の奴隷制度廃止は1838年のことです。米国の奴隷制度は1789年に始まり1865年まで続きました。綿花産業は奴隷制度と一体であり、英米が主体でした。また産業革命とも連動していました。

日本では明治時代の文明開化によって産業革命が起こり、国内の綿花では対応できないため、外国からの輸入が主力でしたが、ほぼ英国系商人に握られていました。そこで明治25年(1892)日本綿花株式会社が大阪で設立され、日綿実業、ニチメンと改称しつつ、日商岩井と合併して、総合商社の双日(株)として現在に至っています。日本の繊維産業も紡績工場を各地に作り、女工と呼ばれた労働者の過酷な労働により、生産が上昇、1912年には日本の産業の約5割を占めるようになりました。今日でも「〇〇ボウ」という社名の会社がありますが、元は紡績会社でした。バレーボールで有名になった「東洋の魔女」のニチボー貝塚は実業団スポーツのチームであり、大日本紡績貝塚工場のチームでした。大日本紡績の前身は1889年設立の尼崎紡績で、1926年からレーヨンなどの化学繊維生産を開始し、ナイロン、ポリエステルと発展し、1969年にユニチカと改称して、現在は幅広い産業生産会社となっています。この例のように、日本の繊維産業は明治時代に発達し、一時は日本の主力産業でしたが、日米繊維協定によって次第に衰退しつつ、化学繊維生産や総合商社へと転身していったという歴史があるわけです。

日米繊維交渉のきっかけは1955年に始まったベトナム戦争により米国が繊維製品の関税引き下げを行ったことで、日本製の安価な綿製品の輸入が激増したことです。米国繊維業界は日本からの綿製品輸入制限運動を求め、米国政府は日本に対して綿製品貿易に関する取り決めを提案。1957年に「日米綿製品協定」が締結され、日本は対米綿製品の輸出を5年間自主規制することになりました。しかし1968年の米国大統領選挙戦でリチャード・ニクソン候補は毛・化学繊維にも国際的取り決めを導入するとする繊維規制を公約して選挙に勝利します。1969年スタンズ商務長官が訪日、日本による繊維製品輸出の自主規制を要請したものの、愛知揆一外務大臣は拒否、ミルズ下院歳入委員長が「日本が自主規制に応じなければ、議会は繊維の輸入割当を法制化する」との声明を発表する事態になりました。1970年宮澤喜一通商産業大臣とスタンズ商務長官が会談。しかしスタンズが前年の佐藤・ニクソン会談で合意された「沖縄返還密約」を基に交渉を行ったのに対して、宮沢は密約の存在を否定する佐藤の主張に沿って交渉を行い、交渉は決裂。後に公開した外交文書にはこの沖縄返還密約が含まれていたことが確認されました。1971年ミルズ委員長は「政府間で合意できないならば、業界単体での一方的自主規制に反対しない」と提案し、自主規制の具体的骨子にまで言及。この提案を基に日本繊維産業連盟は自主規制案を発表し、日本政府はこの自主規制をもって政府間交渉を打ち切りました。しかしニクソン大統領は日本側の宣言に不満を表明、自主規制案の内容は受け入れがたく、更に政府間交渉は日本が打ち切ったため行えないので、議会での通商法案の成立を強く支持するとの声明を出しました。

1971年田中角栄通産大臣は渡米し、日米貿易経済合同委員会でジョン・コナリー財務長官と会談しました。事前に通産大臣秘書官から「関税貿易一般協定(GATT)の『被害なきところに規制なし』の大原則を守るべきで、米国は大きな被害を受けていない。」という通産省の立場について説明、「政府による思い切った規制」を迫るコナリー長官に対し「貿易は多国間でバランスをとる話だ。」「我々の調べでは、米国の繊維業界はこれといった被害を受けていない」と一歩も譲らなかったそうです。しかし田中の帰国直後に米国から「対敵通商法を発動し、一方的な輸入制限もあり得る」との報が入り、田中は幹部らの「潮時だ」との判断を受け、田中は米側の要求をのむ代わりに繊維業界の損失を補填するという方針に転換します。国内繊維業界への対策として輸入規制で余剰の出る織機の買い上げ案に目を留め、2千億円を超えるという巨額な費用を佐藤首相、水田三喜男大蔵大臣を説得しました。結局、米側原案に近い形での「日米繊維問題の政府間協定の了解覚書」の仮調印が行われ、1972年1月3日に正式調印となりました。日米繊維問題は一応の決着し、繊維業界へは751億円の救済融資が実施され、第67臨時国会でも1278億円の追加救済融資が補正予算として計上されました。

1978年綿業協会間の紛争の仲裁を仲介する民間非営利団体機関として英国のリヴァプールに綿業協会間国際協力協議会(CICCA)が設立され、日本代表として日本綿花協会(大阪)がメンバーとなりました。最大の綿花輸出国は米国でしたが、2003年には米国政府の綿花事業者に対する補助金、外国輸入業者に対する米国政府の債務保証、米国産綿花が外国産価格を上回った場合の差額補助金という綿花産業保護政策はWTO協定違反にあたる旨をブラジルが訴え、米国は敗訴し、WTOは米国に綿花補助金の廃止・是正勧告を行ったことで最終的に決着します。日本の繊維交渉も努力も意味がなくなりました。

日米繊維交渉が難航した背景に経済的利害関係の他に沖縄返還という重大な政治課題があったといわれていました。米国政府は沖縄を日本に返還する代わりに、日本政府に米国の主張する繊維規制に同意することを求めていたのです。このニクソン政権の戦略は日本側の事情で極秘扱いにされ、表立った交渉の場ではあくまでも経済的交渉という体裁で、国側の意向は実際の交渉を行う事務方には伝えられなかったのです。このため日米双方で思惑が食い違い、交渉は混迷を極めました。時期を同じくしたこの双方の動きは、当時「絡んだ糸が縄になる」とか「糸を売って縄を買う」などと皮肉られました。縄というのは沖縄のことです。

尖閣諸島の返還問題にも繊維交渉が絡んでいました。尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に沖縄県の一部として日本に施政権が返還されたのですが、これに台湾政府が強く反発、米国政府に働きかけた結果、米国政府内にも沖縄との一括返還に否定的な意見が一部にありました。「繊維交渉で日本に譲歩を促す際の交渉材料にするためにも、直ちに日本に返還すべきでない」というものでした。台湾の主張は結局、今の中国の主張の根拠でもあり、当時の米国の政策に日本は今も振り回されているといえます。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/日米繊維交渉を参照)

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