新暦正月4日は本来、旧暦師走十三日の煤払い



師走十三日はこの日に大掃除をするならわしで、今では新暦の12月13日に伝統が移ってしまい、神社やお寺ではこの日に煤払いや大掃除をします。旧暦の伝統には意味がありますが、新暦になってから、形だけが移されて、単なる行事になってしまい、本来の意義が忘れ去られるようになってしまいました。二十四節気のような太陽の運行による季節の変化の場合は新暦になっても不都合はあまりないのですが、月齢により決まっている旧暦の行事の中には新暦だと合わない場合がたくさんあります。太陽も月も人間の営みとは関係なく昔から運行はほぼ変わっていませんから、時の流れに従う行事も変ってはいけないはずですが、人間の文明という思い上がった思想で行事も伝統も変えてしまうということが歴史上何度もありました。その1つが新暦の導入だと思います。その思い上がりを戒めて反省するためにも、旧暦の意味を考えたいというのがこのコラムの目的の1つです。

煤払いは本来、旧暦の12月13日に行われていました。これは奉公人が新年に里帰りできるよう、旅路の時間を考慮して早めに店などの大掃除が行われていたからだそうです。江戸時代には煤払いを終えると、冬場の重労働後の滋養強壮と長寿祈願を兼ねて「鯨汁(クジラ汁)」が日本各地で食されたことが、数々の川柳や書物、物売りの記録から残されており、その習慣は広く一般に普及していたといわれています。昔、鯨は魚の1種類を考えていて、獣ではない肉であり、貴重なたんぱく源でした。欧米の鯨捕りは油だけが目的で産業革命の機械の潤滑油として乱獲した結果、大西洋からいなくなり、次いで太平洋にまで捕鯨に出てくるようになりました。鯨を食用としていた国は日本だけではないのですが、捕鯨が禁止になった原因は欧米にあるにも関わらず、世界の捕鯨を禁止するようになってしまいました。自分たちが食べないので、それを食用としている人々を野蛮と決めつけるのは独善的な文化です。一方で文化の多様性を主張するのは不条理で不合理だと思います。大掃除を年末にする文化も奉公人たちへの配慮であり、日本の優しさの文化の特徴でもあります。当時の欧米は奴隷労働制度でした。

江戸時代大掃除では、押入れの奥から出てきたり、襖の下張りなどに使われていたのを見つけたりした浮世絵や瓦版を、ついつい読みふけってしまう、といった和やかな一面もありました。つい最近まで、5月の大掃除で畳の下に敷いてあった古新聞を読んでいて、叱られるといった習慣がありました。今では畳の下に新聞紙を敷く習慣もほぼなくなり、そもそも新聞を読まなくなってしまいました。

江戸時代の商家では、煤払いが終わると誰彼構わず胴上げを行うのが慣わしとなっていたそうです。今、胴上げは野球か駅伝の優勝の時くらいしかみかけなくなりました。老人や病人、子供など掃除に参加しない者は、掃除を行っていない部屋に退避するか、外出して掃除の邪魔にならないようにしていたそうです。掃除は力仕事でしたから、怪我したりしないようにする配慮です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/掃除より)こういう優しさも今はなくなってしまいました。

奉公人もいなくなり、帰省も晦日ぎりぎりの御用納めまで働くようになった今は煤払いの意味もなくなりました。伝統を重んじる神社や寺院には残っている習慣ですが、いつまで続くか疑問です。

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