日露和親条約
今日は旧暦だと師走二十一日です。安政2年(1855)12月21日に伊豆の下田長楽寺において、日本とロシア帝国の間で日露和親条約、日魯通好条約が締結されました。これが現在の北方領土問題の起点です。領土問題が連続テーマになったのは偶然です。
安政2年(1855)12月21日は新暦だと1855年2月7日の換算になるので、1981年に日本政府は2月7日を、「北方領土の日」と定めました。また、北方領土の日には下田市で北方領土マラソンが玉泉寺から長楽寺の間で開催されるそうです。
条約の正式名称は日本国魯西亜国通好条約(にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)で、日露通好条約、下田条約、日魯通好条約と呼ばれることもあり、締結当時の日本では日魯和親条約と表記していました。ロシアの漢字が異なるのも歴史があります。日本では江戸時代、ロシアを「露西亜」「魯西亜」「俄羅斯」「峩羅斯」と表記していました。魯西亜が一番使用頻度が高かったようで、1855年の条約では魯の字が当てられました。しかし「文字は踊る」(大阪毎日新聞社、1935年)によると、「『魯』の字は、『おろかもの』の意味であるといふので、ロシア政府から、わが政府に抗議して來た。その後は、『魯』のかはりに、『露』の字をあてるやうになつた」ということだそうです。そこで1875年の樺太千島交換条約の条文では魯に代わって露が使用され、以後、露が主流になっていきました。現在はカタカナですが、もしロシアを悪くいいたい時は魯を使うのが適当ということになりますね。
条約の内容は、択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間に国境線が引かれました。樺太は国境を設けず、両国民の混住の地とすると決められました。ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港、ロシア領事の日本駐在、裁判権は双務に規定、片務的最恵国待遇が定められました。この条約は1895年に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となります。樺太については1875年の樺太・千島交換条約によって一応の決着を見ています。
その後、いくつかの変遷がありますが、現在の北方領土問題では千島列島の範囲が一つの争点となっており、日本政府は1951年にサンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄したが、歯舞・色丹は含まないとしたうえで国後、択捉についても明確にしなかった。これは1946年のソビエトによる一方的な併合宣言や北方占領地のみならず台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためです。ソ連側も米国による南西諸島・台湾・小笠原諸島を国連信託統治という形での実効支配を非難、また日本が放棄した南樺太および千島の帰属を意図的に除外しているサンフランシスコ条約の英米案を非難しました。この条文の解釈を巡って、条約交渉はオランダ語で行われ、オランダ語・ロシア語条文から日本語・中国語条文が翻訳されました。このうちロシア語とオランダ語の条文は一致しているが、日本語条文には、第二条のクリル列島の部分に異なる箇所がありますが、国際法的にはロシア語・オランダ語・中国語・日本語共に有効な条約である点が問題です。ロシア語・オランダ語では「残りの、北のほうの、クリル諸島」と書かれていて、日本語では「夫より北の方のクリル諸島」と書かれており、日本語では「残りの」が抜けている。このため、日本語の条文を見るかぎりクリル諸島の地理的呼称とは得撫島よりも北であるかのように読めるが、ロシア語・オランダ語ではクリル諸島の地理的呼称は得撫島以北に限定することはできないということになっているそうです。条約の表現の解釈が問題になることはこの件だけでなく、しばしば起こっているのが実情です。
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