平将門の乱


将門塚

令和6年1月25日は旧暦12月15日です。天慶2年(949年)12月15日 平将門が上野国衙を倒し国府の印と府庫の鍵を掠奪し上野・下野を制圧。京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して八幡大菩薩と菅原道真のお告げで「新皇」と称します。これで朝敵となったわけです。この平将門の乱は大河ドラマ(風と雲と虹と(1976年))で取り上げられた事で好意をもって広く受け入れられ、『帝都物語(1987年)』など小説や舞台の題材になっているのですが、歴史では天皇制との関りでタブー視されることが多いようです。

将門は日本の第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将の子です。天皇家の血筋であったのです。

将門塚 は東京メトロ大手町駅から徒歩3分のところにあります。首を供養するために石碑が建てられていて、動かすと祟りがあるとされています。偶然にも皇居大手門方面にあり滝口武者であった若き日の彼の様に、今でも皇居の守りを担っています。神田明神の本殿に奉祀されており、天神様並みに恐れられています。京都にも京都神田明神(下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル))に民家に埋もれるようにして小さな祠があります。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはあります。いろいろな逸話がありますが、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下し、この将門の首の首塚が各地にあります。最も著名なのが大手町にある将門塚です。

平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱を総称して承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)と呼ばれています。これらは、ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものでした。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれました。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなりました。朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は豪族同士の対立による私的な武力衝突とその延長としか見ていなかったのですが、天慶2年に将門・純友が相次いで起こした国司襲撃により反乱ということになりました。こういう認識の甘さが崩壊につながる例といえます。

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