旧暦睦月三日


仁徳天皇

この日はめでたい正月の内のせいか、天皇の即位がいくつか行われています。仁徳天皇1年(313年) 第16代天皇仁徳天皇が即位されました。仁徳天皇は大阪府堺市にある天皇陵で有名です。即位元年に難波高津宮に都を移しました。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除したという逸話も有名です。そしてその間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという逸話が記紀に見られ、仁徳天皇の治世は仁政として知られています。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来しています。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を作りました。こうした業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられています。

斉明天皇1年(655年)皇極天皇が再び即位し第37代天皇・斉明天皇になられました。皇極天皇は飛鳥時代の第35代天皇で、史上二番目の女帝です。初代女帝は推古天皇です。皇極天皇は初めて譲位され、また始めて重祚(ちょうそ)された天皇としても知られています。重祚とは、一度その位を退いた天皇が再び、天皇の位に就くことです。皇極天皇は夫である舒明天皇の死後、即位しました。舒明天皇の時代に引き続き、蘇我蝦夷・蘇我入鹿父子は、皇極天皇の治世においても国政に大きな権力を持っていました。しかし、645年皇極天皇の息子である中大兄皇子と藤原鎌足らによる蘇我入鹿暗殺(乙巳の変[いっしのへん])が起こり、これにより蘇我一族が倒れ大化の改新が起こりました。この一件で支えを失った皇極天皇は、天皇の地位を退くことを決めました。弟である軽皇子が即位、孝徳天皇となっています。孝徳天皇は大阪難波に遷都し、さらにその後、同じ難波の長柄豊崎宮に遷都しました。この度重なる遷都により皇太子である中大兄皇子らとの対立を招き、中大兄皇子らは大和へと戻ってしまいます。1人取り残された孝徳天皇は心身ともに病み、その翌年に亡くなります。孝徳天皇の死の一端を担ったとも言える中大兄皇子は、後継者でありながら、皇位簒奪を目論んだとされることを懸念し辞退します。これにより皇位継承者が不在となったため、中大兄皇子の地位はそのままに、皇極天皇が重祚、斉明天皇となったといういきさつがありました。斉明天皇は自ら大軍を率いて朝鮮半島を目指しますが、その途中、九州で亡くなってしまいます。これが白村江の戦いです。皇極天皇と斉明天皇は別人物であるという説を唱える歴史学者もいます。大化の改新後、皇太子として実権を握っていた中大兄皇子が天智天皇7年(668年)第38代天智天皇に即位されました。白村江の戦い以後は国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置し、それまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行いました。また日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていきました。中大兄皇子時代には漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされています。

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