大坂城炎上と歴史


大阪城

旧暦慶応4年1月18日(1868年2月2日) 大坂城は炎上しました。戊辰戦争の時、旧幕府軍から新政府軍への大坂城の引き渡しの最中に出火したとされています。今では新暦の方が採用されて解説も2月2日としていることがほとんどですが、本当は旧暦で表示するべきでしょう。1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没しています。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構です。1959年の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定しています。戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺がありましたが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失しました。天正11年から羽柴秀吉によって築城が開始され、羽柴家の本拠地となりました。一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と思われていますが、実際には天正13年には秀吉が関白に任ぜられ、翌年に関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設、天正15年の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して死ぬまで伏見において政務を執っていました。ただ諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていました。慶長3年に豊臣秀吉が死去、関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍が敗れた結果、220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏でしたが、豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていました。慶長19年の大坂冬の陣において大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す状態になりました。冬の陣から4か月後の大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡しました。幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、近畿地方、および西日本支配の拠点となりました。江戸時代には三度の落雷による損傷と修復を繰り返しました。江戸末期、慶応3年に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していましたが、慶応4年に始まった鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の敗北が濃厚になると、同年1月慶喜は大坂城を脱出し江戸へ退却しました。翌年には徳川慶喜征討大号令が発せられ、大坂城内に群衆が乱入。新政府軍への大坂城の引き渡しが行われた1月9日本丸御殿の台所より出火し、本丸御殿・本丸の三重櫓11基・桜門・姫門など本丸のすべての門、山里曲輪の東菱櫓・西片菱櫓・山里門・極楽橋、二の丸の四番櫓・五番櫓・七番櫓・太鼓櫓・艮櫓・巽櫓・玉造門など城内の建造物のほとんどを焼失しました。明治政府は城内の敷地を陸軍用地に転用しました。広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となりました。

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