墾田永世私財法


広がる田のイラスト

旧暦5月27日は日本の土地制度と社会構造に大きな変革をもたらした重要な出来事の舞台となったと考えられています。それが「墾田永世私財法(こんでんえいせいしざいほう)」の発布です。この法は、奈良時代の天平15年(743)、聖武天皇の治世下で出された法令であり、日本の土地制度の大きな転換点として歴史に深く刻まれています。
墾田永世私財法の本質は、「開墾した土地は、一定の条件のもとで私有を永続的に認める」というものでした。それまでの日本の基本的な土地制度は「公地公民制」に基づいており、すべての土地と人民は天皇のものであるという原則が貫かれていました。農民が耕す土地も、租・庸・調といった税を課す対象として律令国家が管理していたのです。世界のほとんどの国で、土地と人民は王や貴族などの領主のもの、という考えが中世まで続きましたが、日本では古代、すでにそれとは異なる制度が生まれたのは驚きです。
奈良時代に入ると人口の増加や律令制の形骸化、農民の逃亡などによって、農地の管理が困難になっていきます。また、仏教の保護政策の一環として、寺院に土地を寄進する動きが強まり、公地制度が揺らぎ始めました。こうした中、国家は耕作地を増やすための方策として、民間に開墾を奨励する必要に迫られました。そこで打ち出されたのが、墾田永世私財法だったのです。この法によって、「新たに開墾した土地に限っては、永久にその所有を認める」という政策が打ち出されました。特に有力貴族や寺社は、広大な未開墾地を開発し、それを自らの荘園として蓄積していくようになります。ここに、日本の中世へとつながる「荘園制」の萌芽が生まれたのです。
旧暦5月27日にこのような法が公布されたことは、象徴的な意味合いもあります。この時期は、田植えが終わり、夏の本格的な農作業を前に一息つく頃。農業の営みにおいて節目の時期であり、人々が土地に目を向ける感覚が高まる時でもありました。国としても、農民の労働意欲を引き出すためのタイミングとして適していたのかもしれません。また、この法令の背景には、聖武天皇の仏教政策も大きく関係しています。国分寺・国分尼寺の建立に象徴されるように、国家による仏教の積極的な導入と庇護が進められ、寺社勢力への土地供与が進められていました。墾田永世私財法は、開墾の奨励という経済的な側面だけでなく、寺社や貴族の経済基盤を強化する政治的な意図も含まれていたと考えられています。
結果として、この法の導入は日本社会に長期的な影響を及ぼしました。律令体制の下での土地の公的管理は徐々に崩れ、私有地や荘園が広がることで、中央集権的な国家の力は弱まり、地方に根ざした有力者や寺社の自立が進むことになります。平安時代以降の武士の台頭や、幕藩体制の原型となる土地支配構造も、この時点から始まっていたといえるでしょう。一見すると単なる農業政策の転換のように見える墾田永世私財法ですが、それは日本の社会制度、経済構造、ひいては政治体制にまで波紋を広げた歴史的な出来事で、それが自然と向き合う農耕民族としての文化と密接に結びついていたことに意味を感じます。

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