ポツダム宣言


国後島

1945年7月26日にアメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、中華民国蒋介石主席の名で日本に対して出された、13か条からなる宣言がポツダム宣言です。正式には日本への降伏要求の最終宣言とも言います。ポツダムとはドイツのベルリン近郊にある町の名前です。事後報告を受けたソ連のスターリン共産党書記長は署名していません。中華人民共和国も大韓民国も成立はこの後ですから、当然、署名者に入っていません。

第二次世界大戦でドイツ降伏後、アメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳がこの町に集まり、戦後処理について話し合いが持たれました。その中で日本と戦争状態にあった主要三国である、アメリカ・イギリス・中華民国の共同声明として発表されました。

ただし、原案のほとんどはアメリカが作成し、イギリスの修正が若干入っただけの内容で、他の国は内容に関与していません。原文は(https://en.wikisource.org/wiki/Potsdam_Declaration)に掲載されています。内容の概要は日本軍の無条件降伏の他、日本国民を欺き、過ちを起こさせた勢力を取り除くこと、そのための新秩序ができるまでは日本国領域内は連合国に占領されること、日本国の主権は本州・北海道・九州・四国および連合国が決定する諸小島に限ること、言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重が確立されること、日本国民の意思による平和的政府が樹立されること、などとなっています。1945年8月14日、日本政府はこの宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に天皇から国民にラジオ放送を通じて発表されました(いわゆる玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ号甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印しました。これにより、ポツダム宣言は初めて外交文書として固定されたことになります。日本では8月15日の玉音放送をもって敗戦(終戦)としていますが、国際的には9月2日の調印ということになります。

ソ連軍は日本が降伏したあとも侵攻を続け、同年8月18日には千島列島の北端にある占守島を占領。さらに8月28日から9月5日にかけて北方四島に上陸し、占領しました。1946年1月29日、日本を占領していた連合国最高司令官マッカーサーの司令により、千島列島、歯舞群島、色丹島などの地域に対する日本の行政権が停止されました。北方領土は現在に至るまでソビエト連邦およびそれを継承したロシア連邦が実効支配を継続している状態です。日本は1951年9月8日に連合国諸国との講和条約であるサンフランシスコ平和条約を締結し独立しました。同条約によって日本は千島列島を放棄しました。この千島列島に関する解釈は二転三転したため、混乱も続いています。論理的にはポツダム宣言関係国にソ連や中国や韓国は含まれていないので、個別に二国間条約を結ぶことになりますが、それが外交的な争点となりやすいのも事実です。

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