旧暦から新暦へ
12月4日は「カレンダーの日」です。明治5年の太政官布告で太陽暦が採用されることとなり、明治5年12月3日(旧暦)が1873年(明治6年)年1月1日(新暦)とされました。この改暦により、日本は太陽暦を採用している諸外国と外交上の足並みを揃えられることになったということです。西洋文化を取り入れたい明治政府にとって外国と条約を結んだり、会合の約束をする時に暦が違うのは不便でした。
日本は長い間、月を基準にした太陰暦を使用してきました。太陰暦では1日が新月で15日が満月となり、庶民に分かりやすい暦でした。しかし、太陰暦には問題があって、
約29.5日が12ヵ月あっても365日より約11日短く、季節とずれてしまうところです。そこで現在の閏年のように閏月を定期的に入れて調整していました。今年はその年です。閏月がある年は1年が13ヵ月(384日)でした。それで今年は12月になっても旧暦の師走にはなりません。
明治6年は閏月があるはずの年であり、役人の給料を13ヵ月分払わないといけなかったのですが、近代化政策で財政難であった明治政府は、西洋の暦である太陽暦に合わせることで支払いを事実上踏み倒したのです。それがこの年に暦を替えた大きな理由の1つです。西洋文化を採り入れるため、というのはタテマエであり、ホンネはここにあったようです。明治5年12月3日を明治6年1月1日にすることで、明治5年12月と明治6年の閏月の給料2ヵ月分を払わずに給料の大幅カットに成功したのです。「こんな乱暴なやり方はないだろう」と怒った人もいました。役人の給料だけでなく、当時の商人たちは掛け売りが中心でしたから、年末(大晦日)にまとめて支払う習慣でした。2カ月も大晦日が早くなるので、大いに困った人もいたことでしょう。
暦の変更だけでなく、明治政府は旧暦による慣習を迷信として排除しました。西洋文化を真似ることが正しいことだ、と信じたわけです。それならば西洋文化の基盤であるキリスト教も普及させるところですが、明治政府は国家神道を中心に据えていて、キリスト教はそれほど普及しませんでした。これは世界的に珍しい歴史です。文化の移入において宗教が関係しないということはあまり例がありません。廃仏毀釈も行っており、明治政府は宗教改革には積極的だったことはあまり知られていません。
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